心の中にできた壁
私の職業はシステムエンジニア。最初に就職したソフトウエアハウスでは、コンピュータの専門学校で学んだ人間を初めて採用したと言われた時代だった。プログラマーからシステム設計者になり、プロジェクトマネージャーとして進捗管理を行う。
50歳までには、結婚出産で仕事を辞めざるを得なかったり、育児で残業ができず同僚に冷ややかな視線を送られたりと、それなりに辛い時期はあったが、それは常に戦う相手、交渉する相手がいる壁だった。転職をする。短時間に効率よく結果を残しスキルを認めさせる。会社と交渉し権利を主張する。立ちはだかる壁をよく観察し、通れる隙間がないか、下は潜れないか、壊せるところはないのかと考え、それなりに対処できた。
だが、50歳でぶつかった壁は、まったく違うものだった。なぜなら自分の心の中にできた壁であったから。
大手のシステム会社からベンチャー会社に移った頃だ。Webエンジニアが台頭してきて、レガシーシステムの仕事は減りつつあった。プログラミングは若手に任して自分はシステムテスト担当に回る。完璧なテスト計画書を作成し、完璧なテストでシステムの高品質を担保している。そのはずなのに、自分は開発チームの役に立っていないのではないか、老害だと思われているのでは、という思いが常に頭の中を占めるようになった。
ベンチャー会社の平均年齢は35歳。自らを長老と称して仕事場を明るく盛り上げ、メンバーの進捗の相談にのり、納期遅れでクライアントに頭を下げる役目を引き受けた。
それでも、やはりシステム開発はプログラミングが肝だ。徹夜で開発を続けるメンバーにスタミナドリンクを差し入れながら、彼らより給料が高い自分が、どう思われているのかを考えると笑顔が強張る自分がいた。
だがまだ仕事を辞めるわけにはいかない。1人で育てている息子はこれから大学なのだ。
システム業界は男性が多い。上司、同僚、クライアント。ランチも飲み会も男性だらけのなかで働いてきた。同世代の女性技術者は40歳を境にいなくなり、愚痴をこぼせるのは同世代のおっさん仲間だけだった。昔は30歳で引退と言われていたシステムエンジニアだ。IT業界の変化についていけない50歳は不要だよね、と。
転職してシステム開発とは縁のない会社に行った男性が急に真剣な顔になった。
「資格を持ってる?今までの経験の価値を上げるのは資格だよ。」
資格なんてもってない。就職した時代にはコンピュータ技術者は資格なんかいらない。技術力が大事、徹夜できる体力が大事とされた。第一、開発現場に火が付いたら、資格試験の当日に行けなかった、なんて話が普通にされていたのだ。
「そんなんじゃダメだ。それから50代からはシステムオンリーでもダメ。何かひとつ自分の強みの業界を作る、そこでシステムエンジニアの経験を活かす。医療なんてどう?」
たまたま、その時、大きなクリニックの勤務管理システム開発チームに入っていた。だが、医師の勤務体系を確認することはあっても医療の知識が必要だとは考えてもいなかった。
医療の資格って?医療事務とか?
「システムエンジニアの強みを活かさなければ。医療情報技師とかは?」
そんな資格は聞いたこともなかった。調べてみる。とてつもなく高いハードルだったが、このままグズグズと自分を老害だと思って過ごすなら賭けてみようと思った。
1年間の勉強のすえ受かった。死ぬほど勉強してきた習慣を忘れないうちにと、合格した瞬間、他の資格を探した。診療情報管理士。医療情報システム監査人補。
資格を取った自信、ひとつの分野に精通していると語れる自信。ほどなく医療関連のシステムの提案に加わることになった。電子カルテの導入、何十とある医療システムのリプレース、医療従事者の情報共有、患者への案内にデジタルサイネージ。
医療の知識とシステムの知識が両方必要なニッチな業界だったから、年齢は関係なく必要とされ、嬉しかった。知識と経験を頼られる人材となっていることに自信と誇りを感じた。同僚やクライアントと積極的にコミュニケーションをとるようになった。
心の中にできた壁は、プライドを奪い、モチベーションを奪い、コミュニケーションを奪い、自分を追い込んだ。他人の評価を恐れ、自分の中にできた壁の内側にとじこもっていたのだと気づいた。
私にアドバイスをくれた男性に、資格証を見せて感謝を伝えたことがある。
会社で、役に立たないおばはんと思われているのよ、でも今からWEB言語やれないよねえ、と愚痴る私に、自分もそう思って転職して逃げたと笑った。全く別業界に転職した彼は、システムに関係ない仕事を必死で習得しつつ、その会社で使っている販売管理やグループウエア、Web会議システムを調べ、エキスパートになったそうだ。システム部なんかない会社を選んだからね。次に仕事が楽しくなくなったら、この方法もあるから、と。
あのまま自分の心の中にできた壁の内側に蹲って、壁に押しつぶされていたらどうなっただろう、と考える。転職しても、うまくいかなかっただろう。そもそも50歳で同じ業界に転職できただろうか。
経験を積めたこと、仕事の失敗や成功を分かち合った友人を得ることができたのは、長く働いてきたことの特典だと思う。次は私がアドバイスできるよう、もっと経験を積み重ねていきたい。
矢野ふみ様