覚悟を決めて
ありきたりではあるが、30代、結婚、出産、育児というライフイベントが、仕事人生の「壁」となった。ただ、実際にその壁を乗り越えるまで、この壁の正体を私は誤解していた。私がぶつかったのはよく一般に考えられている、時間や体力の不足による「仕事と家庭の両立」という壁ではなかった。
私がぶつかったのは、「迷惑をかけたくない」という自分自身の意識(無意識)の壁だった。
誰よりも必死でもがいているのに、自己効力感が消えていく。意欲を失ったわけでも、楽な働き方を求めたわけでもない。むしろ、迷惑をかけている自覚があるからこそ、何とか少しでも役に立ちたいと思っているのに、30代後半、私は自分のことを「職場のお荷物」としか思えなくなってしまっていた。
私は地方の公立高校の教師であり、16年目を迎える。高校教員になる前には、通訳や翻訳の仕事を2年ほど、その前には、米国の精神病院に1年ほど勤務していた。紆余曲折あって現在があるが、教師としての仕事にやりがいを感じ、年数を重ねるごとによりよい授業、より責任のある役割を果たしていける喜びを感じていた。
仕事がますます充実してきていた4年目に子どもを授かった。体調が良く、全く休むことなく勤務ができたこともあり特に不安はなかった。定期健診も最終受付が4時半の病院を選び、授業等に迷惑をかけないようにした。休む期間・タイミングも、年度をまたぐことなく4月1日に復帰し、職場への負担を最小限にとどめた。
出産から復帰までが順調すぎたのだろうか。復帰してから、これまでのように働けないこと、特に、急な予定に対応できないことが、想像以上のストレスになった。
朝、補習を実施したくても引き受けられない。放課後、保護者と面談をしたくても対応できない。保育園からの呼び出し電話があれば、授業や部活への対応を、あちこちにお願いに回り、猛ダッシュで帰らなくてはならない。
参観日の前には授業変更ができたし、予防接種は夏季休暇中に予約できた。前もってわかっていることにはきちんと対応し迷惑をかけないようにしているのに、子育て中、急な予定の変更は必ず起きた。そして、そのたびに、同僚に頭を下げ、教室にいる子どもたちに申し訳ないと謝りながら、帰らなくてはならなかった。
息子ともっといるべきではないか、という葛藤もあった。保育園の玄関で私にしがみついて泣く息子を、先生に無理やり引きはがしてもらって出勤していた。息子の泣き声がずっと聞こえるような気がして泣けてくることも多々あった。夫は勤務地が遠く、急な対応ができる環境になかった。実家も離れていて頼れなかった。その上、実の母も義理の母も専業主婦だったからか、孫が他人に長時間預けられていること自体受け入れがたいようで、自分が責められるような気もしていた。
仕事にも、家庭にも、迷惑ばかりかけていると感じた。
もう少し正確に言うならば、同僚にも、息子にも、自分のせいで迷惑がかかっていると感じるようになっていた。
そんな風に働いた復帰2年目に、2人目の命を授かったが、3カ月と少しで流産してしまった。正直、この頃のことを私はほとんど思い出せない。ただ、病院の先生の説明をぼんやり聞きながら、動かなくなった黒い塊の写真を前に、その大切な命のことではなく、午後の授業の心配をしている自分を責めていた記憶がうっすらとある。
私はとにかく迷惑をかけたくなかった。できる限り迷惑をかけたくない。これ以上の迷惑をかけたくない。そういう思いを募らせていく中で、私は無意識に、初めから仕事を引き受けない選択をしはじめた。
担任を持たず、副担任でいることを希望した。翌年には、「時短勤務」という制度を利用し、早く帰る選択をした。清掃指導も、部活動指導もできなくなったが、初めから引き受けていないので、突然誰かに迷惑をかけることはなくなった。
この時から、私が引き受ける仕事は、量も質もぐーんと少なくなった。私はありがたいポジションを手に入れたはずだった。
しかし、実際には思ったほど楽にならなかった。
突然、迷惑をかけることは減ったかもしれなかったが、常に申し訳ない気持ちがあった。自分の選択によって、誰かにしわ寄せがいっている。みんなだってそれぞれ事情はあるのに。そう思うから、平時にはあらゆる雑務を引き受けた。こなしている仕事の量は決して少なくなかった。
翌年、再び時短勤務を希望する私に、管理職は「今は子育てをがんばればいいよ」と優しい声をかけ、「実家の近くに引っ越したりできるといいかもしれないですね」とアドバイスをしてくれた。
権利に恵まれ、配慮に守られたとてもありがたい状態に私はあった。
でも、何かが消えてしまった。
管理職の温かい言葉に、「はい」と答えながら、やっている仕事量は全然少なくないのに、成し遂げたものはほとんどないのだ、と痛感した。 働く喜びを忘れ、自分は「職場のお荷物だ」と考えるようになっていた。
そんな私を変えてくださったのは、新たに赴任してきた女性校長だった。
年度末、面談の場で、「家庭の事情でお役に立てず迷惑をおかけしております」と切り出した私に、彼女は言った。
「覚悟を決めましょう」
「甘えているんじゃない」というお叱りの言葉でも、「私はこうやってきたのに」という同性先輩方の非難めいたコメントでもない。「あなたはやれる、だから覚悟を決めてやりなさい」という、強く、優しく、厳しい言葉だった。
「覚悟を決める」
その日、私は真っ白な紙に大きくそう書いて家のパソコンに張り付けた。
翌年度、私は時短勤務を希望しなかった。本当に怖かったが、「覚悟を決める」そう誓い、「自分にやらせてほしい」と手を挙げて、再び職場での役割と責任を増やしていった。
生まれ変わったような一年だった。校長先生のまなざしに見守られながら、私はチャレンジを続けた。
気が付けば、迷惑をかけたくない、という思いはどこかに消えていた。迷惑をかけるかもしれないのはみんな同じだ、と思えるようになっていたし、自分は役に立つ存在だ、と再び感じられるようになっていた。
仕事は、「チャレンジするからこそ面白い」と再認識もした。振り返ってみれば、様々な事情を抱える同僚の雑務を引き受けてきた経験が、組織全体のために働く力を高めてくれていた。そうやって働いているうちに、様々な別のチャンスにも巡り合えた。県の科目教育推進リーダー、教科書編集、文部科学省関連業務等、仕事の内容も範囲も広がり、ますます働くことが面白い。
30代、ライフイベントによる変化に直面し、迷惑をかけることを恐れる方がいらっしゃるとしたら、それは責任を果たしたいという、強い思いの裏側なのかもしれないということに気が付いてほしい。出産、育児、家事、介護等、様々な変化の中で「無理すること」を勧めたいのではない。でも、予測される心配を計算に入れすぎて、自分自身を縮めていく選択をしないでほしい。
そして、組織には、働く人の可能性を縮めてしまう「権利」や「配慮」ではなく、働く人の「覚悟」を後押しするそれらを育てていく必要がある、と感じている。
さて、次は40代。どんな壁にぶち当たるだろうか。乗り越えるも、ぶち壊すも、よけて通るも、扉を作るも、、、今はまだわからないが、これからも「覚悟を決めて」働くことで、誰かが「覚悟を決める」ことを支えたい、と思っている。
氏名 A.K. 様