進歩しなければ退歩と同じ 1 ~フローレンス・ナイチンゲール
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まえがき
少子高齢化による労働力減少が進んでいる日本では、政治・経済・医療・教育はじめ、すべての分野で幅広い人材の活用・人間らしいより良い働き方が進められています。さらに工業化社会から情報化社会へ急速に移行しつつある今、一層仕事の進め方・人の働き方に見直しが迫られています。
今回取り上げる偉人はナイチンゲール、白衣の天使・看護師の象徴として広く知られています。が、彼女が残した功績は看護の実績だけではなく、現代にも通じる統計学を取り入れた組織づくり、効率を高める具体的な業務改善などにあります。何より看護を博愛的な奉仕活動または医療周辺の雑用係の立場から、確固とした職能をもつ専門職に引き上げたことは大きな意義をもちます。「看護」にまつわる状況や用語を「ビジネス」の環境や言葉に置き換えても通用する、ナイチンゲールが後世に残した仕事に対する姿勢を辿ります。
長い努力が才能を生む
フローレンス・ナイチンゲールは1820年5月12日、イギリスの裕福な地主の家庭に生まれました。教育熱心な両親のもと、幼少期からフランス語・イタリア語・ギリシャ語・ラテン語などのほか、哲学・数学・経済学から地理、美術・音楽・文学など広範な教育が施されました。当時、富裕層では貧困層をボランティア訪問することが、美徳と考えられていました。しかしF・ナイチンゲールは貧困層の飢餓や病苦に苦しむ悲惨な状況を目の当たりにして、次第に表面的な援助ではなく困難にある人々に奉仕する仕事こそが自分の進むべき道だと思うようになります。しかしまだ女性が働くことが難しかった時代、胸に覚悟をもちながら術もなく、勉学に励みつつ悶々と長い時間を過ごさねばなりませんでした。
31歳になった彼女は姉の看病を口実に、やっとドイツの附属病院がある教育施設カイゼルスベルト学園で看護教育を受け、看護婦を目指します。しかし当時は女性の社会進出自体が稀な時代でした。まして看護婦は専門知識など求められない、患者の身の回りの世話をする雑役係とみなされる社会的地位の低い職業だったので、当初母親や姉は彼女の進路に大反対でした。反対を押切って知人の紹介でロンドンの病院に就職したものの、無給のうえ生活費がかかるため、理解者であった父親が金銭的に支えました。
病院では看護改革を任され、今まで病院内に無かったパイプを通して温水を送ること、巻き上げリフトで患者の食事を運ぶこと、ナースステーションを定めて患者との間をベルで結ぶこと(ナースコール)など、患者の療養にも看護師の労働にも合理的・画期的な改革を進めます。後に母親や姉の理解と協力を得るまでの間も、彼女はイギリス各地の病院の状況を調べて、専門的教育を受けた看護師の必要性を訴え始めます。
物事を始めるチャンスを逃してはいけない
1854年クリミア戦争が始まり新聞は連日戦地の負傷兵の惨状を報じます。F・ナイチンゲールが従軍志願の意を固めたころ、状況悪化を重く見た当時の戦時大臣シドニー・ハーバードから従軍の依頼が届きます。シスター24名・看護婦14名の総勢38名を率いて、病院のある後方基地スクタリ(トルコ、イスタンブールの隣接地区)に着いたのは寒気の増す11月でした。傷病兵の看護のために赴いた病院では、官僚的な縦割り行政により必要な物資が必要なところに配給されていませんでした。さらに歓迎されるどころか、現地の軍医長官は管轄の違いを理由に看護婦の従軍を拒否するありさまでした。最も驚かされたのは、兵舎病院内の不衛生な状態でした。そこで彼女はトイレの衛生管理を管轄している部署がないことに着目して、トイレ清掃から始めます。
進歩のない組織では持ちこたえられない
そうした苦心を伝え聞いたヴィクトリア女王は戦時大臣にF・ナイチンゲールからの報告をじかに女王に届けることを命じて、報告を反映した改善を女王の意志として院内に告示することにしました。今では当たり前の掃除や換気・ネズミの駆除・室温管理・シーツや病衣の洗濯・食事内容など現場の改善が少しずつ進むと、看護婦団および患者である傷病兵たちのモチベーションは向上しました。2月に42%だった死亡率は5月には約5%に下がり、戦場での負傷による死亡よりも院内の不衛生による感染症などの死者が多いことを立証したのです。彼女の取り組みが評価され病院の看護婦総責任者となっても、衛生管理の徹底と健康管理のため、夜回りを欠かさず行ったことで「ランプの貴婦人」と呼ばれるようになります。こうしたF・ナイチンゲールの功績が広く知られ、本国イギリスでも一躍「クリミアの天使」と称賛されるようになりますが、彼女は英雄扱いを嫌ったといいます。
1856年クリミア戦争は終結し、7月16日に最後の患者が退院して、病院は閉鎖されます。彼女が実績を遺した看護活動に従事したのは、クリミア戦争下の約2年間だけでした。従軍当時、不衛生な環境で一日2~3時間ほどの睡眠という過酷な日々を過ごしたせいか1857年に心臓発作で倒れた後、ブルセラ病(ブルセラ属菌による感染症)の慢性症状と思われる慢性疲労症候群を発症、以降の約50年間のほとんどを自宅のベッドで過ごすことになります。しかし彼女の本領の発揮は、ここから始まるといっていいのかも知れません。
現場を退いても情報の収集や分析・自らの経験や知見などの執筆により、後進の育成・医療看護の発展に尽力し続けました。