「何のために学ぶのか」自立への一歩 ~津田梅子(その1)
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まえがき
令和5年、ビジネスでも女性の活躍が目覚ましいと実感できるようになってきました。しかし、世界経済フォーラム(WEF:World Economic Forum)が6月23日に発表した女性の社会進出度を測る「ジェンダーギャップ指数2023」では、日本は参加146カ国中125位と、過去最低のランクでした。さらなる女性の地位向上が求められる今、約150年前の明治初期に国際的な視野をもって女子教育の道を切り拓いた津田梅子の生涯と近代日本に果たした功績をたどりたいと思います。
令和6年7月発行予定、新5千円札の肖像に採用される津田梅子は、私立『女子英学塾(現・津田塾大学)』の創立者です。明治から昭和にかけて、女性の地位向上・個性の尊重を掲げた女子教育の先駆者とされています。
日本初の官費女子留学生
津田梅子は1864年(元治1年)、江戸幕府の通訳官であった津田仙の二女として牛込(現在の新宿区)に生まれました。父は官職在任中から退官後も何かと外国との関連がありましたが、梅子は日本舞踊の好きな女の子として育ちます。
1871年(明治4年)政府は日本の国際化に対する積極的な施策として、岩倉具視を全権大使とする『岩倉具視使節団』を設立し、アメリカからヨーロッパへの視察歴訪を企画します。一行は使節・随行員・留学生など107名に及び、1年10カ月の長旅でした。当初、留学生は男子が対象でしたが、欧米視察の経験をもつ当時の北海道開拓使次官・黒田清隆は「優秀人材の育成には、家庭内に教養ある母親が必要」と政府に提言し、急遽女性の公募もすることになりました。各々学ぶべきテーマのある通常の留学生と異なり、あくまでも教養ある家庭婦人の育成のため外国見聞を広める目的でした。
留学期間10年間に掛かる全費用は官費で賄われ、さらに奨学金も支給される優遇でしたが、女性の自立などは不要16~20歳で嫁ぐのが当たり前の時代、10年間をアメリカ滞在に費やして婚期を逃すことを案じたか応募者は少なく、旧幕士族の6歳から14歳の子女5名だけでした。
当時、開拓使嘱託の職にあった梅子の父・仙は本来海外への関心もあり、女子への束縛もさほど強固なものではなかったようです。梅子の姉・琴子に応募を促しますが拒否されます。比べて、外交や社会・経済に興味があったわけではないが、物怖じしない好奇心から二女の梅子は自分の意志で「行きたい」と言い、参加を希望しました。応募した5名は全員が日本初の官費女子留学生として使節団に随行することが決定し、史上初めて皇后への拝謁を許されました。梅子は6歳、使節団中の最年少でした。
アメリカ上陸
1871年12月23日に横浜港を出発した使節団は、1872年1月12日サンフランシスコに入港後、貸し切り列車で大陸横断鉄道を経て、ワシントンD.C.に向かいます。
一行の多くが洋装・断髪に変える中、日本の伝統に誇りを持っていた岩倉具視は和装・髷を通しますが、外国人から未開の国と侮られるのではないかという周囲の助言により洋装に切り替えました。途中、大雪による18日間の足止めもあり予定から大幅に遅れて、シカゴに着いたのは2月25日でした。2カ月以上に及ぶ旅の間、英語や外国文化の勉強をしつつ、女子留学生たちの異文化への興味と期待は高まっていったと思われます。
上陸直後から洋装を望みながら伝統的な和装で長旅をしてきた5人の女子留学生は、岩倉具視に直談判してシカゴでやっと洋服を買ってもらえました。それまでの美しいけれど動きづらい和服や面倒な髷から解放されて、機能的な洋装になった5人の記念写真が残されています。
衣服を着替えるように、新しい視野をもって他国から学べることを学び、自国の新時代への展望の芽を育むであろう象徴的な写真です。