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岩崎小彌太に浸る7日間vol.6「三綱領につながる小彌太の哲学③企業活動のIntegrity(誠実)and Fairness(公正)」

 
目次

三菱の三綱領

「三菱の三綱領」は、1934年に三菱商事会長の三宅川百太郎(みやがわ・ひゃくたろう)が、1920年に小彌太が商事会社の場所長を本社に召集して行った訓諭の内容を基に、3つの社是としてまとめたものです。小彌太が揮毫した3つの綱領は現在でも三菱商事会社の役員会議室に掲げられているようです。現在三綱領は、現代の経営に合わせる形で以下のような企業理念となっています。

※三菱の三綱領

・所期奉公(しょきほうこう):事業を通じ、物心共に豊かな社会の実現に努力すると同時に、かけがえのない地球環境の維持にも貢献する

・処事光明(しょじこうめい):公明正大で品格のある行動を旨とし、活動の公開性、透明性を堅持する

・立業貿易(りつぎょうぼうえき):全世界的、宇宙的視野に立脚した事業展開を図る

三綱領につながる小彌太の哲学に関しては、1つ目は「生産者と消費者に対する自社の社会的責任」(vol.4参照)、2つ目が「Speculationを排せよ」(vol.5参照)、としてすでに紹介しました。最後3つ目は、「企業活動の誠実と公正」についての話です。

企業活動の誠実と公正

最後に、私の根本的信念に就いて一言御清聴を煩わして置きたいと思います。

「それは我々の職業即ち商業ということを、私が如何に観るかということであります。(中略)我々の職業は之を社会的にみますれば、生産者と消費者との中間に立ちて、最も便利に且つ最も廉価に物品の分配を司るにある。また之を国家的に観ますれば、国内の生産品を、我が生産者の為に、最も有利に且つ最も広く海外に輸出する、或いは外国の生産品を我が国内の生産者又は消費者の為に最も低廉に且つ最も便利に輸入するにある。即ち社会に対し国家に対して、此の重要なる任務を遂行することが、我々の職業の第一義であり、又其の目的とする所であると信ずるのであります。而(しか)して此の任務を尽くすに当りまして、需要供給の関係と、時と場所との差異を善用して、正当なる利益を得るに努むることが、我々の職業の第二義であると信ずるのであります。此(こ)の両義ともに等しく我々の活動の重要なる目的であることは勿論であるが、第二義は何処までも第二義であって、第二義の為に第一義を犠牲にする事は断じて許されないのであります。」
(宮川隆泰『岩崎小彌太~三菱を育てた経営理念』中央公論社、1996年、90-92p)

小彌太は、三菱商事の企業活動において重要なことは、「生産者と消費者との中間に立って、最も便利に廉価に物品の分配を司ること」にあると述べています。輸出入、国内の物流における活動を基に、消費者の生活を良くする。さらに国家、社会のために貢献できることが最も重要であり、企業活動として利益を出すことはその前提に基づいて行わないといけないとしています。

「塩せんべいだけはやるなよ」

三菱商事では、昭和初期の頃まで外国貿易を主とした取引が主で、国内取引についてはそれほど力を入れていませんでした。三菱としては、大規模な組織と専門的知識を持った多数の人材が必要とするような、三菱しかできない商取引、貿易を行うべきというのが小彌太の考えでした。

そのため、小彌太は1917年に三菱商事を独立させた時から、日本国内の商売にはあまり関係しないほうがよい、外国との貿易に重きを置いてほしいとの考えをもっており、商事創立直後の雑貨課長を務めた渋谷米太郎は、雑貨課長になったときに小彌太から、「なにをやってもいいが、塩せんべいだけはやるなよ」といわれたと後年回想しています。国内の小規模な企業の取り扱う商品の売買に手を出すな、という意味の注意でした。(『岩崎小彌太~三菱を育てた経営理念』133p)

この小彌太の考えは、明治以来の近代化に並行して、外国貿易が特に重要視されてきたという背景がありました。しかし、アメリカ、イギリスなどの欧米主要国での保護貿易、ブロック経済圏の形成などにより輸出が減少し、また金輸出再禁止による円安のため輸入取引も減少することが予想されたため、1932年6月に従来の方針から転換して国内取引拡大も目指すこととなりました。

この際にも、小彌太は、多くの日本国内の中小企業者と利害が対立することを危惧し、国内商品の選択には、三菱が中小企業者を圧迫したと批判を受ける恐れのあるものはなるべく避けること、また商品を消費者に直接に提供するような販売方法はなるべくとらないこと、という通達を出しました。

新たな事業展開①~光学

その他、この時期、小彌太は次々に新たな事業を展開していきます。日本海軍では潜水艦の製造を望んでいましたが、潜水艦に欠くことができない潜望鏡が当時の日本の技術では作れませんでした。

この課題が海軍から三菱に持ち込まれましたが、小彌太は、これを受けて1917年に日本光学工業株式会社を設立しました。戦前には軍用光学機器製造を行いましたが、戦後にこの企業は、世界有数のカメラ光学メーカー・ニコンとなりました。

新たな事業展開②~化学工業

小彌太は、応用化学の専門家である実弟の俊彌(旭硝子社長)を通じて従来から化学工業に関心をもっていましたが、1934年に、後の三菱化成の社長となる池田亀三郎にタール事業をはじめるように指示しました。池田は以前に自分が坑内主任として勤務中の炭鉱で大規模なガス爆発事故があり、それ以来、炭鉱事故の防止技術を研究していましたが、同時に石炭化学工業にも関心を持っていました。

池田は、石炭化学に興味を持った理由として、「私が石炭化学に関心を持った動機は、こんな危険な目にあって掘り出した石炭を、単なるエネルギー源としてボイラーや機関車に焚いてしまうのはもったいないというところにあった。」と述べています。

石炭は、そのまま燃料としても使用できますが、蒸し焼きにして抽出すると製鉄をする際に高い強度を持つ燃料となるコークスをつくり出すことができ、またそのコークスを生み出す際に抽出される副産物(タールなど)から染料、化学肥料、化学薬品などを生産することができました。

小彌太も、1934年に設立された日本タール工業株式会社に大変期待しており、「私は三菱として、空気と水と石炭によって人生最大の幸福をもたらす物の生産に尽くしたいとかねがね考えていたが、今回、当地に建設中の日本タール工業(北九州市黒崎に建設された)こそは、念願実現の第一歩である。」と語っています。小彌太は空気と水と石炭によって肥料を作り、当時不足していた食糧不足を解消するために、米の増産をしたいと考えていました。小彌太にとって、化学肥料の生産は「人生最大の幸福をもたらす物の生産」でした。

その後1936年に、日本タール工業は日本化成工業と名前を変えますが、この化成という言葉も、重工業と同じく(序説参照)小彌太の造語で、中国古典の「易経」の宇宙万物の生成発展を意味する言葉として使用したいということで、日本最大の漢和辞典(諸橋大漢和)を制作したことで有名な漢学者・諸橋轍次にも相談して、命名をしています。

新たな事業展開③~重工業

また、1934年には、三菱造船会社と三菱航空機会社とが合併して三菱重工業株式会社が設立されます。この決定は、小彌太が発案しその強い指導力によって進められたものでしたが、社内・社外から大きな反発がありました。そのいきさつについて少しみていきます。

小彌太がこの合併を行った理由は下記2点です。

①造船と航空機は仕事の内容が設備面、技術面で似通っていること。発動機などは大小の差こそあれ技術的な原理は同じなので、技術者を交流させて1つの統制下に運営したほうが技術上の進歩が早いこと。

②経営的な側面で、造船と航空機は仕事の繁閑が同じでなく、両者を一元的に運営したほうが経理上は効率がよいこと。当時、造船会社は赤字で、航空機会社は陸海軍の発注と助成により安定した利益を出していた。

しかし、この合併には社内から、新会社が膨大な規模の会社となり運営が大変なこと、三菱は各社の独立心が強く、技術者もそれぞれの会社のアイデンティティやプライドが高く合併を嫌がるなど、多くの反対の意見があがっていました。造船・航空機の発注先の陸海軍からも合併に反対意見があがりました。その背景には当時、陸軍・海軍は三菱造船、三菱航空機のほか、中島飛行機、川崎造船所、川崎航空機などとも取引していましたが、それぞれが自分の言いなりになる民間メーカーを育成し、官需専門の民間業者としてのタテの関係を維持したいという思惑がありました(陸軍の造船は〇〇、航空機は〇〇、海軍の造船は〇〇、航空機は〇〇といった具合に)。

小彌太はこうした反対意見に対して、「これにより会社の基礎を安定させ技術的にも国家に貢献することができるのである、正々堂々たる議論であり自説をまげられない。いたずらに曲説をなして押し通そうとする者は軍であろうが政治家であろうが、相手にする必要はない。軍が注文をださないというなら、出さなくても宜しい。」と断言したので、周りにいた役員は鼻息のあらい軍の将校との折衝に大変苦労しました。小彌太の信念の強さがうかがえるエピソードです。

他にも、製鉄事業の合理化、規模拡大のために、製鉄5社と大合同を組み、1934年には日本製鉄株式会社を設立に一役買うなど、精力的に三菱の事業を運営していきます。しかし、時代は戦争へと向かっており、1932年の5・15事件により犬養毅首相が射殺されると、その矛先は三菱銀行が襲撃されるなど財閥へと向かい、また、同年の井上準之助前蔵相・三井の総帥の團琢磨が暗殺された血盟団事件が起こると、小彌太の近辺も警備に気をつける必要が出てきました。小彌太は、当時日本人男性の平均身長は153センチのなか、身長が約180センチ、体重が約130キロの巨漢で、かつ正義感が強い人物だったので、こういった脅迫にも臆せず行動しようとして周囲を困らせたようです。

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