「何のために学ぶのか」自立への一歩 ~津田梅子(その2)
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近代日本の一歩
『岩倉具視使節団』欧米への歴訪最大の目的は、西洋文化の調査・外交儀礼のほか、江戸時代に結ばれた不平等条約改正のための予備交渉を行うことでした。そのため、その後の日本に重要な役割を果たす伊藤博文・大久保利通など、そうそうたる顔ぶれを揃えています。しかし予備交渉は法的制度の不備などから難航し頓挫、途中から使節団の目的は国際親善と西洋文化の調査・収集に変更されました。
近代化を急ぐ日本には行政・産業・教育など、すべての分野で次代を導く人材の育成が必要でした。まずは藩校などの閉鎖的な教育ではなく、理論化・国際化された教育のために、各分野の先進国から指導者を招聘する交渉に使節は追われます。同時に留学生は、最新の知見を学び修得した技術を日本に伝える任が課せられ、適切な各国に10年間配置されました。 使節団は当時の国家予算の約1.5%を費やして、政治・経済・科学・文化・教育など近代化の礎を一挙に築いたのです。
第2の家族
ようやくワシントンD.C.に到着した女子留学生は、それぞれホームステイ先へ預けられます。7歳になっていた梅子が預けられたのはジョージタウンに住む日本弁務使館の書記官チャールズ・ランマン家でした。外国での生活に慣れてきた約2カ月後、留学生5人はワシントン市内で合宿して生活に必要な英語を本格的に学び始めますが、うち2人は程なく健康上の理由から日本へ帰国、津田梅子・山川捨松・永井繁子の3人が留学生活を続けることになります。この3人は終生互いに助け合う友情を持ち続けました
残った3人は再びそれぞれ別の家庭に預けられることになり、梅子は最初の家庭ランマン家に戻って以降の留学生活を過ごします。日々の暮らしの中でランマン夫妻は次第に梅子を実の子のように慈しみ、梅子もまた第2の両親として夫妻に深い敬愛を寄せるようになります。1882年梅子の帰国以降も1914年に夫人がなくなるまで交流が続きました。
育まれた心の土壌
梅子の勉学に対する吸収力はすさまじく、市内のコレジエト・インスティチュート(私立の初等教育機関)に通い、英語やピアノを習い始めます。渡米9カ月後には日本からアメリカへの渡航の模様を綴った絵日記『A little girl's stories』を独力で英文で書き上げ、ランマン夫妻を驚かせました。
勉学だけではなく、アメリカでの生活慣習・季節の行事、クラスメイトや近隣との交流などを通じて、開放的で平等を尊ぶ精神文化・個人の個性を尊重する礼節などを身につけたのかも知れません。新大陸アメリカでも身分階層や差別がなかった訳ではありませんが、身分の上下に関わらず個人が意思を表明することの大切さ・広く人として共感し理解し合う博愛の姿勢などの精神的バックボーンと感じられたのか、その後梅子は自分の意志でキリスト教の洗礼も受けています。
梅子は14歳になる1878年、さらに中等教育のアーチャー・インスティチュートに進学して、必須科目のフランス語・ラテン語などの語学、英文学・心理学・自然科学なども修めます。休暇には夫妻とともに各地への家族旅行を楽しみ、ピアノも人前で演奏できるほどに上達していました。
こうして温かい愛情に包まれ、精神的な土壌を育んだ多感なハイスクール時代を無我夢中で送っているうちに時は流れ、10年の留学期間の終了が近づきます。
帰国命令
1881年、日本から留学期間終了の知らせとともに帰国命令が届きます。3人の留学生の内、ヴァッサー大学3年制音楽科を6月に卒業した永井繁子は帰国が決定しますが、アーチャー・インスティチュート在学中の梅子とヴァッサー大学本科(4年制)在学中の山川捨松は、卒業まで1年間の留学延長を願い出ます。梅子にとっては初等・中等教育を終える節目に当たります。
許可を待つ間、梅子のホームステイ先のランマン夫妻は「もしも梅子の留学が打ち切られるのであれば、私たちがすべての費用を負担して支援し続けます」と言うほどに、夫妻にとって梅子の存在は大きくなり、梅子自身もすっかりアメリカの家庭や生活様式・価値観に馴染んでいました。1年間の留学延長がかなった後も勉学に励み、その後の梅子にとって重要な理解者・協力者となるフィラデルフィアの富豪ウィスター・モリスの妻メアリ・モリスとも出会い、親交を深めています。
最後まで残った女子留学生2人は、政府からの支援のもとに11年間勉学に集中できたことに感謝し、帰国後は自分たちが積んだ経験をもとに国に恩返しする番だと、意気込んで帰国の途に就きます。1882年11月、梅子は17歳でした。