偉人に学ぶ

岩崎小彌太に浸る7日間vol.3「三菱合資会社の社長に就任」

 
目次

久彌の潔い幕引き

1916年7月1日に、岩崎小彌太は38歳の若さで、三菱合資会社の4代目社長に就任します。小彌太の若さを心配して社長就任を案じる古参幹部もいましたが、久彌は親戚の有力者にも会社の長老にも一切相談することなく、社長の辞任を決断しました。久彌自身も28歳の若さで社長に就任しているので、小彌太の38歳の社長就任を特に若いとは思わなかったのでしょう。また、この辞任は、久彌が亡父彌太郎と同じ52歳の年齢になったことも関連しているかもしれません。久彌のこの決断は、後に、久彌の妹の夫である木内重四郎が次のように評価しています。

久彌さんは消極的だといわれるが、この時などは加藤高明(24代内閣総理大臣、彌太郎の長女の夫。周りから「三菱の大番頭」と皮肉られる)を始め一門の者は誰も相談を受けなかった。 人に相談すれば早過ぎるとか、少し時期を待てとか、いろいろ意見が出るのでこの挙に出たのであろう。加藤もわたくしもその英断に驚いたが、後から見ると全く時宜を得た措置であったとその明断に敬服した。 久彌さんには寸毫も私というものがない。よいと信ずればズバリとやってのける、その点全く余人には真似できない決断力があった。 (武田晴人『岩崎小彌太~三菱のDNAを創り上げた四代目』PHP新書、2020年、40p)

退任した久彌は、業務の一切を小彌太に委ね、口を出すことは全くありませんでした。素晴らしい引き際から久彌の器量の大きさがうかがえます。

社長に就任後に爆発事故発生

久彌の後を受けて、社長に就任した小彌太ですが、その約10か月後に大事件が起こります。1917年5月に大阪市北区安井町にあった東京倉庫株式会社(のちの三菱倉庫)蘆分(あしわけ)倉庫の危険物貯蔵庫内で、塩素酸ソーダの発火による大爆発が起きます。爆発で飛び散った破片が宇治川を隔てた対岸にも落下するという大事故でした。死者43名、重傷者66名、軽傷者517名を出し、周辺の市街にも全壊家屋7戸、半壊23戸、全焼78戸、半焼6戸の被害が出ました。全焼した建物の中には小学校もありましたが、爆発が夕方の5時だったので小学生に死傷者はありませんでした。

この惨事を聞くと小彌太はすぐに大阪に急行し、大阪駅に着くとすぐにその場で大阪市に100万円(現在の30億円相当)の見舞金を出しました。また小彌太は負傷者のいる各病院を回ってお詫びをしました。国を代表する会社のトップがこのような迅速で親身な対応をしたことに驚きです。大阪市当局も小彌太の素早い行動に応えて、早くも事故5日後の5月10日には「金百万円処分委員会」を設置して、負傷者への見舞金や治療費等の分配方法の検討を開始しました。

小彌太がこの突発事故の際に取った行動を聞いた長老の豊川良平は「小彌太さんもこれで社長に及第だ」と語ったそうです。(宮川隆泰『岩崎小彌太~三菱を育てた経営理念』中央公論社、1996年、78‐79p)

迅速な危機対応

リスクが発生した場合には、

(1)迅速な状況把握 (2)迅速な意思決定 (3)迅速な説明責任を果たすこと

が重要ですが、この時の小彌太の行動はまさに模範的な初期対応です。

現代でも、なかなかこのような対応を行うことが難しいですが、近年の模範的なリスク発生時の初期対応として、2012年に起こった化学工場の爆発事故の対応があります。

その経過は以下のように、

深夜2:15に事故発生
→午前7時、事故を起こした会社が記者会見
→午前8時頃、会社ホームページ上で第一報を掲載
→14時に第2報、19時に第3報の発表を行う
→当日に社長が現地入りし、夜に記者会見
→翌日の15時頃に第4報の発表を行う
→翌々日に事故調査委員会を設置

というような迅速な対応が行われた事例があります。

小彌太の対応をみると、会社を運営することは非常に大きい社会的責任があり、有事の際にはトップ自らが前面に出て迅速かつ果断な対応を行うことが重要と改めて感じました。

関東大震災発生!その際には常務が神対応

また、就任7年目の1923年9月1日にも関東大震災が発生します。その際、小彌太は箱根別邸に滞在中で、会社から小彌太に連絡をしても、連絡がつきませんでした。そうした状況なので、小彌太も東京がこれほどの大惨事になっているとは知らず箱根で過ごしていました。(ラジオ放送は1925年からですので、報道でその事実を知ることもありませんでした)

小彌太の指示を仰ぐことはできませんでしたが、三菱社内では関東大震災に対して、常務理事の青木菊雄が、震災発生から4日後の9月5日に、政府に対して社長岩崎小彌太名義で500万円の寄付を申し出ました。(現在の130億円相当)

青木常務は社内では石橋を叩いても渡らないと言われるほど慎重な人物でしたが、この寄付は小彌太の決済を仰いでいない決断でした。小彌太が東京についたのは9月18日でしたが、青木は小彌太に会うとすぐに500万円の寄付について事後承諾を求めました。小彌太は「良いことをしてくれた」と青木の決断を称賛してねぎらいました。(『岩崎小彌太~三菱を育てた経営理念』109-111p)

リスクが発生した際への迅速な対応、社会的責任に対する強い意識は、小彌太だけではなく、当時の三菱の幹部社員にもしっかりとその認識が浸透していました。

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