進歩しなければ退歩と同じ 2 ~フローレンス・ナイチンゲール
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実践を伴わない理論は破滅をもたらす
幼少期から幅広い分野の教育を受けたF・ナイチンゲールですが、中でも最も興味を示したのは数学でした。20歳ころには改めて本格的な学問としての数学を学んでいます。線形代数学の基礎を築いたイギリスの数学者ジョセフ・ジェームズ・シルベスターや、「近代統計学の父」と呼ばれデータのばらつきを見るヒストグラムや肥満度測定のBMIなどの発明で知られるベルギーの天文学者・数学者・統計学者・社会学者のランベール・アドルフ・ジャック・ケトレーなどを学んでいます。特に出生・結婚・犯罪・死亡など個人の行動から、社会現象が示す普遍的な性質を明らかにしようとするケトレーの「社会物理学」には大きな影響を受けます。いつしか物事を統計という切り口で観察・分析して、解決を目指す思考法が身についたのかも知れません。その後の彼女の論理的な合理性・人間を直視する統計の基盤となりました。
人材は創り出さなければならない
クリミア戦争下での看護変革の貢献により、大きな称賛を浴びたF・ナイチンゲールでしたが、仕事はそこで終わりません。看護および医療関連の専門教育の必要性を痛感していた彼女は、野戦後方病院での功績によりオスマントルコ皇帝から褒賞金を、イギリス政府からは功労金を受けていました。それを機に、1855年35歳で後進育成のためのナイチンゲール基金を設立します。1860年にはロンドンの聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校を開きました。従来の宗教団体によるスクールではない、看護知識・技術・マインドから、治療や療養の看護の動線や用具の設置・患者観察に漏れのないナースステーションの運営・また病棟のタイムスケジュールなど機能的な病院管理に及ぶ、世界初の本格的な看護専門学校の創立でした。こうして専門職としての看護師を育成することで、やがて世間の偏見や差別に屈せず自立しようとする人の尊厳と社会的地位を確保する一歩を示すことになったのです。
必要なのは理性(理論)・心(マインド)・技術(スキル)
帰国後、F・ナイチンゲールはホテルの一室にチームを集め、戦時中の詳細な報告書から病院の状況分析をし、さまざまな統計資料にして約1000ページにおよぶ『英国陸軍の健康・能率及び病院管理に関する諸問題についての覚え書き』を作成、改革委員会に提出します。
落さなくてもよい命を救えなかった無念の思いが詰まった戦地でのデータを活用した、本国の病院管理のあり方に応用できる改革提案書でした。
彼女の統計学を取り入れた画期的な改革構想が、簡単に受け入れられたわけではありません。実態の発表は軍部に対する告発・批判とも受け取られかねず、軍部はもちろん決裁権のある女王や議会など、看護医療の現場を知らない人・病院統計を学んでいない人に対して誤解を生まない分かりやすいプレゼンテーションが必要でした。ただの数字の羅列ではなく統計が示す人間の状況変化を分かりやすく伝えなくてはなりません。まだ棒グラフも無かった時代、彼女が考案したのは病棟の衛生改善状況と月別の死亡者数および死因などの分析結果を色分けで分析した世界初の円グラフでした。データの数値が高い項目は、円内に収まらず張り出して円が変形したので、その形から「鶏冠のチャート」「蝙蝠の翼チャート」などと呼ばれました。説得力のあるビジュアル・プレゼンテーションは成功し、各方面の賛同を得て英国陸軍病院の改革を実現しました。その後、病院の管理設計のための統一的なモデルとして、次第に各地に広がっていきました。
自立しなさい。自分の足で立ちなさい
そのほか統計の設計・標本データ収集の基準・応用や分析など、大学での統計教育の推進を提言し、社会や環境・医療や一般生活にも幅広い用途がある統計の普及に尽力しています。
彼女の統計を駆使した経験と研鑽による合理的・実用的な知見は、病院には患者の人権と健康生活を守る責任があり、看護は人間の治癒力・回復力のサポートに徹する仕事という考え方とともに、1860年出版の『看護覚え書き』・1863年出版の『病院覚え書き』に明示され今日でも世界の医療関係・看護従事者のバイブルとなっています。
F・ナイチンゲールは1839年に女性初の王立統計協会の会員に選出され、1860年第4回 国際統計会議(現 国際統計協会)ではケトレーとともに提唱した「衛生統計の統一基準」が採択されます。以降、彼女は「医療統計学の先駆者」と称されるようになりました。