残暑の中、夏の疲れを感じる時は、新涼の風や虫の声を想像して気持ちを鎮める。と、知人が言っていた。 なるほど、辛い時にも気持ちに余裕が生まれる気がする。 しかし、時にはそれを打ち消す現実もある。それでも、平穏な秋の夜を思って、今日一日に力を尽くそう。
在宅勤務も長期になると、すっかり日常の暮らしに馴染んでしまう。
私の場合、50年以上もの間フリーランスだったので、元の生活に戻ったように違和感はなかった。
上司への相談も支障ないし、気も散らないし、かえって仕事の効率が向上したように思う。
何よりも使い慣れた自分の仕事スペース、自由時間の増加が嬉しかった。
という訳で、体力も充実、精神的にも穏やかなリモートワークの毎日を過ごしていた。
ある時、少々の肩こりはあったもののいつも通り週末の仕事を終え、ホッとして
入浴しているときに異変に気付いた。右上半身に真っ赤な湿疹が広がっていた。
(え~っ、話に聞いていた帯状疱疹?なんで私が......)
翌朝一番に受診して、確定した。
早期に治療を始めたことから、症状は少しずつ快方に向かった。
が、恐ろしいことに、反比例するように後遺症の神経痛がひどくなっていった。
右上半身を電流のようにピキピキヒリヒリした痛みが走って、耐え難い。
数か月で癒える人もいれば、数年かかる人もいるという。気が遠くなる話だ。
仕事に集中している間だけは、少し痛みを忘れられるようだが、まだ痛みは続いている。
痛みといえば、私は若い頃から内科系の病気とは縁がなかったが、整形外科系の痛みとは時々付き合っていた。
大学時代に、群発頭痛と思われる激痛を一生の友として思考を続けたというニーチェのレポートを書いたことがあって、
「痛み」と出会うたびにニーチェを思い出しては「何のこれしき」とがんばった。
しかし、今度ばかりは得体のしれない痛みに翻弄されている。
痛みに耐えていると、気力も体力も消耗して、食欲も失せてくる。(なぜ、痩せない!)
やっぱり凡人の私はニーチェになれない。
などと思いつつ病院から帰る途中、知人とバッタリ会った。
彼女は長年、関節リューマチの痛みに耐えながら、家族の世話、自分の仕事を続けていた。
私が「ひどく痛む」と言うと、彼女はこともなげに、「大丈夫。痛いだけでしょ?」と言った。(え?痛いことこそ問題でしょ?)
すると彼女は「私も痛いけど、『痛いだけよ』って思うの。
良くなるか悪くなるかわからないけど、先のことは先のこと」と続けた。
なぜだか、私は憂鬱な気持ちがスーッと溶けて、すっきりした。
痛みを正しく理解したうえで、前向きに抵抗している彼女に感嘆した。 人が抱える痛みも対処もそれぞれだが、身近なところにニーチェがいた。 ちょっと私は痛みに支配されて、気持ちも病んでいたかな。 まだまだ私は、軽くて狭い。
痛くないはずのない彼女にとって『痛いだけよ』は、
負けないために自分に言い聞かせるおまじないなのかも知れない。
でも。だけど。そうだろうけど。やっぱり。絶対。
どうしても。私は「痛いの痛いの、飛んで行け!」と、今日もジタバタしてしまうなぁ。
2020年 9月 9日 (水) 銀子