歳時らしい催事も消えた今年だが、季節は進んで秋らしくなってきた。
と思う間もなくインフルエンザなど、来たるべき冬の準備をしなくてはならない。
平穏な日々は遠いけれど、気持ちだけは平らに明るくもっていよう。それが最強の備えになるように。
閉塞感のある日々の中で、時々、UFOの飛来、森林のミステリーサークルなど、面白い目撃情報が報告される。
が、すぐに実は隕石落下による火球であったり、林野庁の試験林だったり、現実的な正解が出る。
発見者の多くは面白がりの好奇心からの報告だろうが、私は発見者の「あれっ?なんだ?もしかして・・・」という勘違いを楽しく思う。
私は、不思議な発見をしたことはないが、読み間違いや聞き間違いならよくある。
ある時、老舗の甘味処に入ったら筆文字で「おかしながき」と書いたメニューが出てきた。(えっ?)読み直すと「おしながき」だった。(あはは)
道を走る商用車の車体に右から「木下プリント」と大きく書いてあった。左から読んだ私は、一瞬「トリンプシタギ?」と読んでしまった。(あはは)
ごくまれに通る道筋に看板があって、鶴亀食堂の文字が二文字ずつ四角に並んで書いてあった。長い間私は鶴食亀堂って何だろう?と思っていた。(あはは)
もちろん、いずれも私の間違いなのだけれど、我ながら楽しくて笑ってしまう。町を歩きながら看板を読んでいるだけで、おもしろいことはいっぱいある。
時にはわざと間違えたり、アナグラムを試してみたり。間違いを面白く思う自分の性分に気づいてからは、文字全体を見ないで一字一句を読むように心がけているつもりだ。
しかし、勘違いがいつも楽しいとは限らない。
今から50年以上も昔、私が大学に入りたての頃のこと。実家の隣に豪華な家が建った。
挨拶にみえた時、ひょろりとして大人びた様子の男の子が母親の後ろに立っていた。彼は私よりも背が高く、なんだか私を年下扱いしているようだった。
母たちが世間話をしている間に話を聞くと、彼は中学2年生で、将棋が好きだという。 私も少しだけ将棋に触れるというと、時々将棋盤を持って遊びに来るようになった。私の実力は低かったので、教えてもらう一方だったが楽しかった。
しばらくたった頃、「どこかに遊びに行きませんか」と誘われた。(うん、うん、動物園も水族館も好き)
一緒に行ったのは日比谷公園で、当時の中学生にしたら安くないだろうライスカレーを御馳走になって散歩した。
そして、小さな花束をもらった。(あれっ?)
彼の気持ちに気づいた私は、あわてて入ったばかりの大学や私の好きな本の話をした。
それからはあまり話も弾まず、早々に帰宅した。
家に着くと母たちは「背が低くて、お化粧もしていないから若く見られたのね」と笑った。
あの頃の世代は一学年違っても別世界だったから、なんだか悪いことをしたようで気に病んだ。その後、彼がうちに遊びに来ることはなくなり、私も大学が楽しくて次第に忘れた。
何年か経って、仕事に追われる私が重い資料を抱えて帰ってくると、すれ違いざまに会釈して、スポーツカーのエンジンをブオンブオン吹かせて出かけていく彼を何回か見かけた。
勘違いして自分が傷つくこともあるけれど、勘違いされて傷つくこともある。
ほとんどの勘違いは笑えるが、世の中には小さな思い違いが大きな悲劇に発展することもある。 何か行動を起こす前に「~かもしれない」「~ではないかも知れない」と、一度立ち止まって考える必要があるかも知れない。
明日の朝目覚めたら、今世の中にある事件、病気や感染、飢餓や紛争が全部リセットできる個人的な夢だったらいいのに。
しかし、こうした現実を乗り越えることが人智かもしれない。
無力な私だが、今自分にできることを今日一日だけ頑張ろう、と毎日思い続けることにしよう。
2020年 10月 14日 (水) 銀子