銀子の一筆

ともだちの進路相談

晴れても曇っても、じっとしていても蒸し暑い日々にも。
内でも外でも同じ空の下、東京で日本で世界で、人々は何らかの仕事をしている。
子どもも病人も今在ることが仕事だ。誰にとっても一日に一度は笑いを。
苦労や我慢が実る、穏やかな秋の平穏が訪れますように。

30数年前、夫婦共にデザイナーの友人がいた。
たまたま自宅が近いこともあって、仕事ぐるみ家族ぐるみの付き合いだった。彼らには元気で明るい、女の子と男の子二人の子どもがいた。 画材が大量にある仕事部屋を訪ねると、4人がそれぞれ自分の作業に打ち込んでいる光景をよく目にした。
長女はユニークで面白い絵を描き、カンナくずなどでモニュメントなどを作っていた。 子どもたちは私のことが大好きで、絶大な信頼を寄せてくれていた。

ある日デザイナーの母親から電話があって、「どうも娘の様子がおかしいのよ。家の中では何事もないから、学校で何があったのか聞いてみると『言いたくない』って。 あなたに相談したいっていうの。悪いけど聞いてやってくれない?」と言われた。
彼女は小学校に入学したての1年生だった。

訪ねていくと、前もって母親と打ち合わせしていたんだろう。
私たちはキッチンで2人になって、ジュースを飲みながら話した。
「どうして、学校に行かなきゃいけないの?」と突然彼女が言った。
「学校やめちゃダメ?」と言うので、「学校、嫌なの?」と聞くと、彼女はいらだって 「違うよ! 行くのは嫌じゃないの。好きな友達もいるし、先生は優しい。
でも学校はつまんない。もっとずっと、絵を描いたり工作したいの。学校やめたいんだけど、どう思う?」
(あ~、この子は小学校を中退したくて悩んでいたんだ。中途半端な答え方はできない)

「ん~。自分がしたいことがあって、それで学校に行くのが辛いなら、私はやめてもいいと思う」と言うと、彼女の顔がぱっと晴れた。
「そのこと、パパやママには、もう話したの?」と聞くと首を横に振った。
「どうして?パパやママにも関係のある大事なことよ」
「わかんないけど、まだ言いたくない」と言う。
もしも言ったら周囲は驚いて騒ぎになりそうだと、子ども心に察しているようだった。
(だから大好きな両親にも、おじいちゃんやおばあちゃんにも言わないのね。 信頼できる大人の友達、利害関係のない私に相談したかったんだ。大人と同じね)

私は、「じゃあ、その前に考えておくこと、話すね」と言ってゆっくり説明した。
「義務教育は"一人で生きていくのに必要な教育"で、子どもにはそれを受ける権利があり、保護者にはそれを受けさせる義務がある。 だから学校をやめると、もしかすると両親はしかるべきところへ行って説明しなきゃならないかも知れない。 でも大丈夫。学校をやめたって、生きるための最小限の教育を受けるには、いろんな方法がある。けど、たくさんのお金や時間がかかる」 彼女は嬉しそうな顔をしたり、不安そうに眉を曇らせたりしながら聞いていた。(素敵な子)

「大人になると習ったことのほとんどを忘れてしまう。でも、子どものころに毎日勉強する習慣をつけると、大人になって毎日働くことが億劫じゃなくなる。 学校は自分のやりたいことに邪魔なんじゃなくて、自分のやりたいことの栄養なんだと思うと、楽しくなるかもよ」

思いつく限りの義務教育を受けるメリットとデメリット、義務教育を受けないメリットとデメリットを丁寧に説明した。 質問には、なるべく分かりやすく答えた。
彼女は、うなずいたり、うなだれたりしながら聞いていた。長い時間話をした。

「細かいことは覚えていなくていいけど、なんとなく分かったかな? 分ったことだけでいいから、自分で考えてみてね。自分でどうしたいか決めたら、 パパとママにも、ちゃんと自分の気持ちを説明してね。どっちに決めても、私は応援するからね」と言って別れた。

その後、彼女は両親に「学校をやめたいと思ったけど、やめるのはやめた」と言った。 結局彼女は小学校を中退しなかった。悩みぬいた結論というより、日々の楽しさが毎日の退屈さを塗りつぶしたらしかった。
訪ねると私にドリルのコピーをくれて、一緒にやった。 大方は私のほうが高得点だったが、気を散らして少し遅くなると、親に言われているのだろう
「あのね、早い方がいいけど間違えない方が大事なの。だから負けたと思わないでいいよ」と慰め、指導してくれた。すっかり学校が楽しくなって、中退の話は忘れたように消えていた。
その後、一家は遠方に引っ越したが、彼女は美大に進んだと聞いた。

7歳の悩みも70歳の悩みも、誰にとっても根は同じように思える。
今いる環境だけが自分の世界だと思い込んでいると、どんどん追い詰められてしまう。 選択肢はいくらでもあるし、ここだけが世界じゃない。みんなと同じじゃなくてもいい。 自分の健やかな世界が「ここ」に邪魔されているのではなく、自分が健やかに生きるために「ここ」は栄養の一つなんだと思うと、ずっと余裕が出てきて楽しくなる。 最終学歴に、今日のこの時間まで入れたくなる。

2020年 7月 8日 (水) 銀子

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