季節の境目は近年ますます曖昧になっているが、それでも秋の深まりを感じる候になった。 今年の秋は、だいぶ様変わりしてしまったが、 こういう時こそ一人を楽しむ機会だとも思う。香り高い紅茶、好きな音楽、読みたい本、"白玉の酒"。夜長を楽しむ友は身近にある。
今から50年以上も前、最初に始めた読み書きの仕事はコピーライターだった。
「そんな、何だか分らないカタカナの仕事なんかしないで、短大にでも行って花嫁終業をして早く結婚するのが当たり前でしょ」と、周囲の親族にいわれる時代だった。
「どうしても働きたいなら」といって、〇〇先生の秘書などの話ももってきた。
しかし周囲の心配をよそに、昔、絵の勉強がしたかったのに果たせなかった母は「自分がしたいこと、良いと思うことをしなさい。後悔しないように、ちゃんとやりなさい」と言ってくれた。
仕事には専念していたが、自由のきくフリーランス。組織の規律も知らぬまま、自分の気の赴くままに生きてきた。
叔父や伯母にまっとうな暮らしではない、といわれ続けたせいか、いつの間にか、私の心の中に「これでいいのか」と自問する声があった。
そうした漠然とした後ろめたさから、私が感嘆するのは十年一日 の如く、変わらない仕事を続ける人たちだった。
「フリーランスでも真面目に誠実に仕事をすることで、偏見を超える」と決めていた。その頃から、私は『森の水車』という童謡に魅かれた。
「雨の降る日も風の夜も 森の水車は休みなく ・・・コトコトコットン仕事に励みましょう(※)」という歌詞が胸にしみて、今でも自戒と敬意をもって思い出す。
※『森の水車』 作詞:清水みのる(1951年)
今はデジタルの時代で、ニュースもTVやPC・スマホの方が速い。自分に必要なことだけを知ることができる。新聞を契約する人も少なくなったと聞く。
しかし私にとって新聞は「今の事実だけを伝える書き方」「漢字の使い方」などのほか、難しい記事をいかにやさしく分りやすく書けるかなど自分の演習にも役に立った。
多少、時間はかかるが何冊分ものテキストになるし、今起きている世の中のことも分る。自分に直接関わらないと思うことを知ることも重要に思う。
読み終われば野菜の保存やゴミ処理、割れ物のクッション材、チャンバラの刀になるなど、利用できる新聞の有用性を高く評価する。
今は見出しを斜めに読み、ざっと中身をつかむだけなのだが。
何より、雨の降る日も風の夜も、毎日毎日来る日も来る日も、記事を書き、校閲し、流通に乗せて、戸別に配達することだけを考えても、ありがたくて私の頭は自然に下がってしまう。
2020年 10月 28日 (水) 銀子