銀子の一筆

我が心の神保町

天高く我肥ゆる秋。故郷のある人は、おいしい秋の産物が送られてくる頃かもしれない。
どこからも何も送られてこない東京生まれ東京育ちには、うらやましい季節だ。
時々、故郷のある人が「つまらない物」といって実家からの産物を分けてくれることがある。 土地の人が手をかけて作った物が、つまらないはずがない。贅沢な頂き物に感謝して、また肥えよう。

歳をとると懐古的になるというのは本当の話で、さほど老いていない人も「昔、甲子園に出場した」とか「そうそう、あの辺に○○という店があってね」などと、過ぎたことを楽しげに話す。
私も学生時代のサークル仲間と会うと、みんなで歳を忘れて「ちゃん」付けや「君」付けで呼び合って、毎回同じ話を飽きずにして笑い合う。 好きな音楽を何回も聞くように、楽しい話は何回でも楽しい。誰にでも懐古すべき良い思い出があることが素敵だと思う。

東京、御茶ノ水駅から南へ、駿河台の坂周辺には有名大学が多くあって、脇道の奥には作家が原稿の締切り前にカンヅメ状態になってこもるというホテルがある。駿河台の坂を下り切った所が神保町だ。 千代田区神田神保町、古書店が軒を連ねる長い表通りに面した多くの店は、今も残る看板建築だった。
少し足を延ばせば、老舗のレストランや蕎麦屋があって、幼いころは「おいしい物」を食べに、時々連れて行ってもらった。 叔父がいつも買ってくるおいしい洋菓子店もあった。私も小学生の頃、駿河台の中腹にあるプールに通っていたので、神保町周辺は見知らぬ街ではない。 周辺には大小の出版社、画材店・楽器店・スポーツ用品店などが多く集まっている。裏通りには学生向けの安くておいしい定食屋が並んでいた。
高校生になって本屋街に通うようになったが、古書店が並ぶ通りは何だか知的な大人の匂いがして、人の行き交いの邪魔にならないように肩身を狭くして歩いた。 大学に行くと、やっと通行権をもらったように堂々と歩けたが、その頃は古書店より楽器店やジャズ喫茶が目的になっていた。

大学の在学中から読み書きの仕事を始め、広告の仕事を受けると人の出入りが多くなったので、都心の知人の会社に机を置かせてもらうことにした。 机と電話を置いた約1坪が私の初事務所だった。賃料不要といわれたがタダは嫌なので、官庁街に近い虎の門にしては破格の1万円を居候代にした。
だんだん手狭になって、自分だけの事務所を構えたのは神保町の一角。古い和風の木造一戸建ての2階、畳敷きの部屋だった。 階下は軽印刷工場、2階の隣室はフリーのタイプライターが事務所にしていた。当時タイプライターは独立した職業だった。
知人から不用な冷蔵庫や食器棚をもらって居住性を高めた。もとは民家なので廊下の端に台所があり、鍋釜を持ち込んで、隣人と素麺などをゆでて食べたりした。 ささやかな事務所だったが、おもしろかった。周辺には取引先の出版社や編集プロダクションも多く、神保町の表通りに近くて資料集めにも困らなかった。
ある日、机に向かって原稿を書いていると、小さな爆発音がして急に窓が真っ赤に明るくなった。 急いで窓を開けてみると、路地を挟んだ向かいの家の2階の窓から、大きな炎と黒煙が噴き出ていた。家の人は気づいていないようだ。
「火事ですよ!」と叫んで、すぐに119番に通報。消防車や救急車が来て大騒ぎになった。 火元の家の2階半分は黒焦げになったが、幸い怪我人も類焼もなく、火事場跡の強い臭いを残して鎮火した。 後になって、火元の家から通報の御礼として菓子折りが届いた。そんなこともあったが、通常は長閑で便利な事務所だった。

それから間もなく、その辺一帯が消防法によって立ち退きになった。利便性を確保したくて周辺で新しい事務所を探した。
しかし増改築で継ぎ足した迷路のような窓のない部屋、神田川の川面に張り出した湿気の強い物件などばかりだった。 仕方なく神保町は諦めて、少し離れた古びたビルの、風通しも日当たりもいい部屋に移って仕事に明け暮れた。
月日が流れて、当時の取引先は消滅したり、担当者が引退したり、フリーランスの仕事量は激減した。そんな時ご縁があって、70歳にして初めて当社に会社勤めをすることになった。

薄型PCとデュアルディスプレイがズラリと並ぶ近代的なオフィスでは、しみじみ仕事の変遷を感じた。
50年前は手書き原稿の時代で、誂えた自家用のA4・B5などの原稿用紙を大量にストックしていた。ストックの山が無くなる前にワープロの時代が来た。 巨大なワープロのためにデスク1台が占められ、その放熱で寒い日にも汗をかいた。大量の原稿用紙はメモ用紙になっていった。 さらにPC時代になると、事務所の場所塞ぎになっていた巨大なコピー機やFAX機が消えて、紙資料を集める頻度も減った。 PCも数台換えてノート型になると、事務所の必要はなくなり自宅に戻った。
今はどうだろう、電話機さえ不要な時代になった。仕事内容に大差はないが、その都度、文明の利器の進歩を見てきた気がする。 これからはソフトやシステムの発展が急な時代になるのだろう。今年は世界中が大混乱の一年だったが、この波を乗り越えればきっと、もっと働きやすい次なる進展が待っていると確信している。

そして今、読み書きの仕事に対する気持ちに変わりはないが、組織内の常識も規律も初めての勉強で、フリーランスとは別の緊張感を楽しんでいる。
現在、職場はオフィス街の大手町側にあるが、私の最寄駅は神保町駅。廻り巡って再び神保町界隈で仕事をするとは。朝夕に通う道々にはオシャレなビルが増えていた。
しかし、何十年かぶりの神保町の変わらない古書の匂いが懐かしく、雑踏の中で若かった自分とすれ違うような思いがした。やはり、ここは私の「心のふるさと」といえる場所なのかも知れない。

2020年 12月 09日 (水) 銀子

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