マスク生活が長くなって、口元の表情筋が無防備になっているらしい。代わりにマスクは、ますますファッショナブルになっていく。 非常時であっても、装うという本能は洋の東西・年齢性別に関わらず生きているのかも知れない。趣向を凝らしたマスクで新年を迎える人もいるだろう。
取り返しのつかない悲劇と紙一重の所に暮らしながら、ちっとも学習しない人間を愚かだと思う日がある。
が、想像もつかない科学の分野で未来につながる研究を続ける人や、とんでもない逆境から立ち上がる人を見ると、人間ってすごい、と心から思う。
多分、どちらの面も持っているのが人間の特質なのだろうが、他の動物や人工物ではどうなのだろう。
昨今の社会変容から、AI搭載のロボットや、機器が登場して稼働している。労働を代行する利便性は認めるし、高度な判断も評価するけれど、私は心の中で少し案じている。
彼らは疲れ果てて病むことはないのだろうか。まずは、文句も言わずに過酷な責務に耐えて学習を続けるAIに敬意を表したい。AIってすごい。
私は半年以上も前からテレワークをしていて、日々IT技術の高さと利便性の恩恵を受けている。
もっと言えば、とっくの昔から私でさえPCの恩恵を受けて過ごしてきた。
今ではAIの進歩はますますスピード化して、私たちの生活の隅々にまで入り込んでいる。(ありがたいことです)が、しかし、これでいいのか?こんなものなのか?
私は読み書きの仕事をしていて、時々わざと変則な書き方で表現することがある。
するとPCは間髪を入れずに、文法通りに校正してくる。
思わず私はPCに向かって「わざと。わざと、です!」と言ってしまう。昔気質の出版編集長がいたら、PCは過剰校正として厳しく指導されるところだ。
文体や個性を無視した校正はプロの仕事ではない、と言われるだろう。編集や校正が人間の仕事といわれる所以だ。
多分、クールで理性的なAIには「曖昧・わざと・あいまって・慎み・畏怖・気おくれ・だからこそ」などの微妙な気持ちのひだは、今はまだ共感できないのだろう。
人によってプログラムされたはずなのに、どうも杓子に定規が過ぎる気がする。頭が切れて頼もしいが、少しも面白くない人のように(当たり前だが)冷たく感じる。
かつて「コンピュータは決して間違えません」と言った知人がいた。そうでしょう。そうでしょう。入力するのは、間違いの多い人間なんだから。
人間が歩み寄ってAIの得意な仕事をしてもらえばいいということでしょう。
でも、私のようなアナログ育ちの人間は、わがままにも、すぐに「賢いはずのAIなのに、こんなことができないの?融通がきかないこと。
このくらいは理解してほしい」などと、過剰な期待を持ってしまう。つまり、私が現時点でのAIを正しく理解していないことに他ならないのだけれど。
短絡に拒否したり期待するのでなく、それこそもっとロジカルに、AIやPCに対する理解を整理する必要があるのだ、とは私だって薄々気づいてはいるけれど。
でもIT技術は本来、「分かっていない人」も捨てないためのサービスでしょ。
近年はとみに「ロジカル」が重要視されている。確かに環境変化の激しい現代では、大昔のような情緒的なビジネスではなく、ロジカルシンキングによる明解なビジネスが有効だと理解している。 しかし、あまりにロジックに偏れば、血が通わないこともあるだろう。
最近、正論で相手を追い詰める「ロジハラ(ロジカル・ハラスメント)」という新しいハラスメントが話題になっている。
まるで正義のロボットのようで、「怖い」と感じた。
正し過ぎることほど、人を苛立たせるものはない。
論理的=できるビジネスパーソンのイメージが、攻撃的な自信につながるのだとしたら残念なことだ。
より良い社会・明解なビジネスのためだったはずのロジックも、「不備」に向き合う姿勢がなければ、ビジネスにもマイナスになるだろう。
ロジックの根本に温かい人間味や柔らかいコミュニケーションがあってこそ、人間の仕事だと思える。
一方、人間が愚かなハラスメントに囚われている間にも、賢いAIは進化を続け学習し続けている。 機械的な言語で構成されていたはずのAIは、そう遠くない将来、人間がもつ「言葉にできない曖昧な思い」を検知することが可能になるだろう。 労りや思いやり、気遣いなども具体的な行動で示せる時が来るのだろう。人間について多くを学んでも、慢心して誰かを威圧したりしないAIは、雑念がない分やっぱり「すごい」に違いない
いつか、「温かで論理的な人間」と「冷静で人間的なAI」の協働によって、私を含めた世の中のIT弱者が時代の変化を怖がらない素敵な日が来るのを、私は夢見ている。
2020年 12月 23日 (水) 銀子