云うまいと思へど今日の暑さかな...今後10年間で気温はさらに上昇するらしい(IPCC)。 既に私の脳は煮過ぎた湯豆腐状態で、口からは火炎を吐いて暮らしているのに。すれ違う人は皆涼し気な顔をしている。 素敵。だが本当に涼しいのか、見栄または美意識なのか。
江戸っ子のやせ我慢、見栄や虚勢は、落語や滑稽本などでよく知られている。熱い湯に入ったり、蕎麦つゆをほとんど使わなかったり、腐った豆腐を珍味と誉めたり。庶民ばかりでなく、武士も食わねど高楊枝だったらしい。
話としては面白いが、私にはできない。どう思われてもいい。野暮で結構、余計なお世話、好きにさせてください、と思って生きてきた。
◆見栄も外聞も無かった
約50年前、子供時代からの長い規律正しい生活から放たれた私は忙しかった。
大学の在学中から仕事を始め、部活にも熱を入れ、その上多趣味だった。
ブランド物やスター、美容には興味が薄かったが、趣味や個人的な勉強に、親のお金を湯水のように使って、甘やかされていた。
まだ仕事は忙しいという程ではなくて、講義の合間に寸暇を惜しんで、興味のあることは何でもやった。
部活に、旅に、ライブに映画、外の勉強会、遊びの誘いは断らず、24時間はあっという間に過ぎた。家に帰って徹夜で仕事をして、講義に出席し、部活に励んで遊びに寄る繰り返し。当然のように休日は昼過ぎまで眠り、家族との食卓や約束を忘れても、なんの反省もなかった。(だって忙しいんだもの。だって疲れているんだもの)
そんな暮らしは2年ほど続いただろうか。感謝も、思いやりも、労りもなく、多分大事なのは自分のことだけだった。身体も暮らしも大人になったが、心は放蕩な子供だったのだ。
◆見栄張りのすすめ
ある日、ボーっとしていると、母が向かい側に座り、お茶を出して突然言った。
「少しは見栄を張りなさい。(え~、何?何?何のこと?)他人にじゃないわよ。自分自身に対して、家族に対しても」いつも長閑にニコニコしている母が真顔だったので怖かった。
母は静かに言った。「私はいいのよ。あなたがどういう人間でも。でもあなたは、自分はこれでいいと思っているの?この程度の人間でいいの?一生懸命だからいい、悪いことをしていなければいい、っていうものじゃないわよ。これがあなたの思う正しい生活?」
(え~、何?どうしろって言うの?)なんとも言えずに黙っていると、母は続けた。
「仕事や勉強を大義名分にして、好き勝手に暮らして、人の気持ちもわかろうとしない人間で、いいの?少しは、自分は何かのセイにして暮らすほどダメな人間じゃない、と思わないの?家族に信じてほしいと思わないの?他人にではなく、自分に見栄を張りなさい。
自分以外が目に入らないほど忙しいなら、それは実力以上のことをしているからよ。続きませんよ。今だけだと思っているかも知れないけど、これがあなたの人生になるわよ。一事が万事って言うでしょ。自分のことよ。よく考えてください」と言って、黙った。
母があんな風に人生のことを私に話したのは初めてだった。大きな衝撃だった。
◆正しく見栄張る
眼から鱗が落ちて、心を入れかえることにした。
世の中は昼が中心の世界だったから、昼夜逆転の生活は意味がなかった。少しずつ趣味を減らし、身辺を整理した。目に見えることでも見えないことでも誰に対しても、できない約束はしない、した約束は守る、当たり前のことを普通にしようと思った。
仕事・勉強・遊び・休息のバランスを考え、健康に留意した。そのために時間の使い方に気を付けた。自分の存在と人の存在を同等に考えた。
しかし生まれ変わった訳じゃない。小人の力及ばず、失敗は多い。心ならずも約束が果たせない、期待を裏切る、人を傷つける、調子に乗る、物事を甘く見る、怖じて固まる。
情けない。自分に見栄を張るように努力しているが多方面には及ばない。
で、私は今一点に絞って見栄を張っている。
「良いことも悪いこともすべて栄養にして、自分のための勉強にしてしまう」人でありたいという見栄。そうすれば、何事も自分の不勉強のセイになる。恨むことも焦ることも、嘆くことも比べることもなく、他者を許せる。謝って済むことは多くないが、ミスは正そうと思える。気持ちが前向きに平穏になる。気が短い江戸っ子だというのに、これがわかるまで、一生かかってしまった。それでも、今からでも遅くないと虚勢を張っておく。
2021年8月25日 (水) 銀子