立冬も過ぎて、日に日に夜が早くなる。陽の下では明らかだった町の形が崩れて闇に沈んでいく。昔は、魔物に出合ってしまいそうな不安な夕刻を「逢魔が時(おうまがどき)」といった。 今でいえば一日の仕事を終えて気が緩むころ、現代の魔物は街なかや雑踏、人の心の中に潜んでいる。
子供の頃、宇宙人や火星人といえば、頭脳は発達して巨大化し、四肢は退化しているタコ型のイメージだった。 当時読んだH・G・ウェルズの少年少女版『宇宙戦争』の影響だが、世界に通じるイメージだった。今は科学によって宇宙や火星に関してわかったことがほんの少し増えているが、本当のところは未だ不明だ。 NASAだってデータ上の仮説だけで、本当のことはわからない。まさか月に兎がいて餅つきをしているとは、子供の頃から思っていなかったが、謎に満ちた世界の魅力は、昔も今も変わらない。
◆まだ見ぬもの
かつて、まだシンセサイザーが一般的ではなかった頃、いち早く採用した作曲家がいて、時代の先駆として著名だった。 面白そうな人で、ある時、彼の対談記事を読んだ。対談相手は、こちらも著名な作家だった(かな?)。その作家が「宇宙人は人間に成りすまして地球に来ている。 私は宇宙人にも幽霊にも会ったことがある」といった。作曲家は「もしも宇宙人が地球に来ているなら、一度会ってみたいなあ。幽霊というものがいるなら、これも一度会ってみたい。 でもどちらにも会ったことがない。残念だなあ」というと、作家が「それは君が鈍感だから、傍にいても気がつかないだけなんじゃないの?」といった。 「ああそうか」と作曲家が答えて話は終わったのだが、私は非常に同感した。
私も宇宙人に会いたい。恨みがましい幽霊はちょっと嫌だが、悪さをしない妖怪なら会ってみたい。だが一度も会ったことがない。 もしかしたら私が鈍感で気づかないだけで、本当はすぐ傍にいたのかも知れない。と思うだけでなんだかドキドキする。 先方は驚かそうとしたのに、私が気づかなかったのなら(モチベーションを下げてしまっただろうに)申し訳ない気もする。
◆大いなるもの
しかし見えないものが確かに在ると思う時もある。母が亡くなった後、町を歩いていて時々母の声がしたように思って振りむくことがあった。気のせいなのだが。(一緒に散歩していたのかなぁ)
母は特定の信仰や宗教をもたなかったが、よく神様のせいにしていた。
私が忙しかった頃、頭が痛む時、なんだかだるい時など、母はよく「疲れているんだから休みなさい、って神様が教えているのよ」と言った。
そう言われると素直に休息をとる気持ちになった。母がいう神様は、大いなるものの意味で、自然の摂理や人間の道理をいっているのだろうと思った。
母だけでなく、古来人間は天を畏れ敬って、お天道様に感謝して逆らわずに暮らしてきたのだ。
私も特定の信仰や宗教をもたないが、母の原始の血をひいて、大いなるもの、または大いなる力を何となくではあるが信じている。
それは心の中にあって、良心とか真情とか縁とか、人としての規範や訓えなのかも知れない。妖怪だって、その多くは人を脅すためではなく、訓えや戒めを表すとされている。
見えないもの・知らないことが多少の怖れを呼ぶのは、根拠がないゆえに不安が募るからだろう。 しかし、根拠はないが見えないもの・知らないことを畏れ敬い、軽く見ないようにという戒めでもあるだろう。
2021年11月24日 (水) 銀子