梅雨時や真夏・真冬、凌ぎにくい季節は、図書館に人が増える気がする。もちろん多くは閲覧に集中しているが、新聞や雑誌を広げたままで中空に視線をとどめて物思いにふけっている人も多い。空調が整っていて一人になれる図書館は、都会では貴重な空間になる。
幸若舞の演目の1つ『敦盛』に「人間(じんかん)五十年 化天(げてん)の内をくらぶれば夢幻の如くなり...」という一節がある。大きな天空の流れから比べれば、人の世の五十年などは本の一瞬でしかない、という意味だ。では、人間にとって一瞬とはどのくらいの長さか。ドイツの生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルによると、18分の1秒だという。映画フィルムはコマとコマの間の暗転を18分の1秒にすることで、映像が滑らかに見えるらしい。
2駅先、自宅から歩いても行ける住宅地の中にミニシアターがある。時間で勤務管理を受ける以前は、上映作品によって時々行ってリフレッシュした。ミニシアターとは、200座席以下の小さな映画館をいうことが多い。20人もいれば今日は混んでいると感じるほどの広さで、大手配給会社の商業ベースにはのらないが上質な作品を上映する。小学校の休暇時期だけは(経営維持のためだろう)人気アニメーションが上映されて、満員になる。
◆消えていく文化空間
今年の1月、あるミニシアターがこの夏で閉館すると発表された。社会変容の大きい昨今、全国的に撤退は珍しくないのだが、この閉館のニュースには大きな喪失感を感じた。小学生以来、何かと縁の深かった町、神保町のミニシアターだった。入り浸るほどのマニアではなかったが、観たい作品があれば行ったし、何となく観た映画も記憶に残る作品だった。いつでも行けると安心していたのに。都会の小さな文化が消えていくことに胸が痛む。
同じく神保町の大きな書店が閉店と聞いたときにもショックを受けたが、こちらはビルの建て直しだとわかった。都内であてにできる大きな書店は他にもあるが、町から書店や劇場ホールが消えることは、文化的な空間を保てずに消してしまう私たちへの警鐘とも受け取れる。
◆文化の嵐時代
私を含む団塊世代の青春期はあらゆる文化が嵐のように押し寄せ、日本の高度成長期をそのまま享受できた時代だった。社会を動かす働き手になるにはまだ間があったし、いつまでも無邪気な子供でもいられなかった。
私も能狂言・歌舞伎・文楽・落語、クラシック・ジャズ・ロック・フォーク、舞踊・演劇・映画、絵画・彫刻・工芸、文学・詩歌・ノンフィクション・漫画・学術、古今東西の興味のあることは何でも寸暇を惜しんで知りたくて、忙しい時間を過ごした。
私の見聞よりも、もっと広く高いところ、もっとコアで深いところも世の中にはあるだろうが、この時期に私は不相応な贅沢も理不尽な世間も学んだ気がする。広く浅く知ったところで、人格形成の礎になった実感はないし、「見るべき程の事は見つ」というつもりもないが、少なくともその後は驚くこと恐れることがちょっと少なくなった気がする。文化に研磨されて、人間は何者にでもなれるし世の中には何でも起こり得るんだと理解するようになった。
文化の嵐が治まると、文化的栄養で頭でっかちになった青年たちは現実社会の働き盛りになって24時間働き、世の中はビジネスの進展に熱中した。
◆文化の更新
先駆的なミニシアターがなくなることで、いよいよ昭和は遠くなりにけり...か、と一時は寂しかったが、消えるものばかりではない。新しい瞬間には新しい文化が生まれている。近所の「若者の街」には、おしゃれなミニシアターが誕生した。地元らしき高齢者カップル、平日はビジネスパーソンであろう中年、ピンクの髪のパンクな若者、さまざまな人々が吸い込まれていく。ここにもまた新たな文化をのぞきに来る人がいるんだと思って何だか嬉しい。
小惑星から生命の素アミノ酸や水が発見されたし、NASAはUFOの研究チームをつくった。地球がある限り面白いことは続き、ヒトがいる限り歴史は動き文化は更新される。これからの展開が楽しみだ。
2022年6月29日 (水) 銀子