2年間にわたって制限されていた人の移動が、この夏は緩和されるようだ。既に夏休みの予定は決まっただろうか。江戸時代に定着した藪入りの慣習から、現代企業でも同時期を休暇にしていることが面白い。それだけ日本人にとって、盆と正月は変わらぬ大事な行事なのだろう。
私も親戚も東京に生まれ育ったので帰る故郷はない。菩提寺は自転車で行ける距離だ。今は一族が集まって膳を囲む機会もなくなったが、祖母の存命中には人の出入りがあった。
東京では7月に行う盂蘭盆会や、法事などに親戚や関わりのある人が集まって会食することがあった。特に祖父の節目の法事には普段行き来のない遠縁や縁戚、故人の友人などがみえるため、人寄せ用の大やかんや大皿、銘々皿などの食器、酒器・茶器、座布団などを納戸から出してきて、洗ったり拭いたり並べたりを手伝った記憶がある。(人寄せ用の茶器は家の手入れに出入りする職人にも使われた)お造りや鮨は注文したが、てんぷらや煮物、酢の物などはうちで作ったので、女性はみんな割烹着姿で忙しそうだった。
大人は思い出話が弾んで楽しそうだけれど、私はよく知らない人からちゃん付で呼ばれ、いろいろ聞かれるのが気詰まりだった。家中がワサワサ落着かないので居場所がなく、いつもは見向きもしない世界文学全集などを開いて、隅っこでいとこたちの制服が見えるのを待っていた。(当時、子供の正装は学校の制服だったのだ)
◆家の中にあった機会
先日、上司が「実家に誰にも読まれないままにホコリをかぶった世界文学全集があった」というのを聞いて、ずいぶん久しぶりに子供時代に人除けのために開いた文学全集のことを思い出した。昭和期、不思議なことだが、世界文学全集などを取り揃えていた家庭は少なくなかった。友達の家にもあったし、確かにうちにもあった。親にしてみれば「広く文学に親しんで教養豊かに育ってほしい」と思っての教育的な配慮だったのだろうが、残念ながら読んだことがなかった。
小さい時から本は好きだったが、ほとんどは書店から買った単行本や図書館から借りた本だったし、韓非子を読んだのは漫画本だった。子供心には、準備されたものではなく、自分が読む本は好きな時に自分で選びたかったのだろうか。うちに揃っていた文学全集も、いつの間にかホコリをかぶって整然と並んだまま背景の一部になっていた。
大人になってから製図版の下四隅に重ね置いてテーブルをつくり、自室で友達とパーティを開いたことがある。古いタイプのしっかりしたハードカバーで大きく重かったので、脚にするには具合がよかった。または押し花の重石には重宝したが、読むには手に余って実用的ではなかった。
子に文化的な環境を用意した親の満足感、子にはいつでも読める安心感を幾分遺したきりで、後年引っ越しを機に場所塞ぎの世界文学全集・百科事典などは二束三文で処分した。同じように、人寄せのための道具類もすべて人に貰ってもらったりして処分した。そもそも物をしまっておく納戸も人寄せの習慣も、次第になくなりつつあった。
◆失われた機会
今から思うと、浅はかにも私は多くの知る機会を自ら逃していたのだと感じる。家に集まる縁ある人たちの話、どんなつながりで何があったのか、どんな時代を共有したのかをもっと聞いておけばよかった。断片的に思い出す人々について何も知らなかったことがもったいない。
若気の至りというべきか、好きな分野の好きな書籍に偏って、文学知識として知っているだけで読んだことのない名作といわれるものは数多い。自分の傾向や主張が固まる前に、家の中にある間に読んでおけばよかった。知らない世界がもっとあるはずなのに、もったいないことをした。
過去のことではない。今でもそうだ。自分とは異なるタイミング・性質・意見であっても、遮断せずにいったん耳を傾けてみることは、勉強になるに違いない。
しかし柔軟性も吸収力も衰えた今は、単行本でさえ手に重いし、違和感があることには耳も遠い。やはり勉強は、体力・気力だけは充実しているであろう若いうちにしておかないと、もったいないことになる。
2022年7月13日 (水) 銀子