空が低くなり、雨もよいの日が続く。降っても降らなくも、街路のアジサイは日に日に色濃く重た気になっている。寒暖・晴雨・家事・買い物・着る物食べる物に迷う毎日だが、確実に進んでいる季節が過激な風雨や暑さに至る前に、準備するべきことをしておこう。
世の中には天にも地にも人にも、「なぜ?」と思うことがよく起きる。「なぜ」を突き詰めないと解決への糸口は見つからないのだが、または「なぜ」が分かっていても自分のこと・自国のこと・我が星のことになると日々に追われて手当を有耶無耶にすることが多い。が、時々「なぜ」と自身に問いかけることで、心情が更新されて新たなモチベーションにつながることもある。
■生き物の理
高齢就業者の私は、時々「なぜ長い間仕事を続けてこられたのか?」と聞かれることがある。思えば大学在学中、20歳の時にフリーランスとして開業以来、一度も仕事をしていなかった時期はない。働くことを誰から望まれた訳でもなく(むしろ当時は働くことに反対された)、かといって「女性が働く」ということに強固な志をもって貫いた訳でもない。「女の子は早めに学校を終えてお嫁に行くのがよい」とされていた時代、一般にお茶・お花・ピアノなど稽古ごとは奨励されたが、将来の仕事につながる、または興味をもったことの勉強などはあまり褒められたことではなかった。
それでも仕事をしてきたのは、植物でも動物でも生き物であれば働くのが当たり前の自然なことだと思っていたから、たまたま好きな仕事に巡りあったから、だった。
■当たり前の暮らし
大昔、人間は老若男女を問わず誰もが自分のできることで生計に参加していた。農耕・漁獲・牧畜・物づくりなど多くの生業はもちろん、家事も育児も年代・健康・状況に応じて誰もが参加して死ぬまで働いていたのだ。12世紀の末、武家政権の支配が強まると、階層や性別・年代による役割分担や規制が社会に浸透して、「サラリーマン社会」の基礎になった。以来、江戸時代が終わるまでの約700年間、士農工商の身分制度とは別に、社会の価値観が固定されてきた。今もそれは家庭教育からつながるアンコンシャス・バイアスとして根強く残っている。(アンコンシャス・バイアスのすべてが悪いとは思っていないが)
私は、その時々の実力に応じて自分の身を自分で賄うお百姓さんの生き方に共感していた。もちろん得手不得手により納得して自ら合理的な分業を選ぶ生き方も尊重しているが、責任や決定・内と外・家族との関わりまで担当がある考え方は、私にはどうも解せなかった。
■最強の武器
人にはそれぞれの考え方があっての選択だろうが、私の場合は働き続けられる最大の要因は好きな仕事だということが大きい。若いころから読み書きの仕事が好きで、それにまつわる勉強に今でも興味が尽きない。どんなことでも簡単な仕事というものはないが、好きなことなら困難にも耐えやすい。
あるいは、何かのご縁で始めた仕事を、次第に好きになっていく場合もあるだろう。好きになれば既に単なる労働ではなく、生活や性格の一部になる。
「好きだ」ということは強い。仕事を自分事として考えられる。プライドが育つ。飽きない。めげても回復できる。成長を目指せる。失敗が無駄にならない。後悔しない。
時代が変わって、女性が働くことが珍しくなくなっている。当社にも家庭・子どもをもち、仕事をしっかり進める優秀な女性が多くいる。カリカリすることなく生き生きと、穏やかに明確にビジネスワークをこなす彼女たちの後ろには、理解・応援・協力するパートナーや心強い制度があるのかもしれない。が、それだけでは、こうはいかない。
彼女たちの自律的な力強さに感嘆するとともに、まこと「人はパンのみにて生くるものにあらず」なのだ、と実感する。
2023年6月9日 (金) 銀子