最近知ったことなのだが、去る11月23日「勤労感謝の日」は「ワーク・ライフ・バランスの日」でもあったそうだ。勤労に感謝するだけではなく、働き方と暮らし方双方の調和の実現を図ろうと提唱されている。
最近は「ワーク・ライフ・バランス」という言葉も耳に慣れてきた。本来は「仕事が順調ならプライベートも充実し、プライベートの充足は仕事への意欲につながる」という好循環の生活への提唱だ。
しかし、仕事を続けながら子育てや介護に便宜を図る支援制度としての認識、または仕事とプライベートをキッチリ分けて不可侵にする姿勢、だと思われることが多い。「プライベート」に対立するのが「仕事」という構図は少し悲しい。
確かに仕事と切り離して必要な時間を確保することは大事だが、それより満足感のバランスが取れていることが幸福感を増すように思える。
長い間一人で仕事をしてきた。土日や祝日もなく仕事一辺倒で、時に徹夜もあった。その代わりに平日にゆったりと気ままな休日を手に入れることもある不規則な日々だった。
フリーランスは就業時間を決めて規律正しく過ごすことも、引きこもって自堕落な生活を送ることも可能だ。よくよく注意していないと、周囲の状況に簡単に流されてしまう。
顧客本位なのでタイムテーブルを変えるのは無理だが、私は自分の精神を濁らせないための歯止めとして、倒れそうで倒れないバランスのヤジロベエを胸の中にもっている。毎日「必ず働く、必ず遊ぶ」を大原則にして(その割合はスケジュールによって増減するが)何とかバランスを保って来た。
「働く」は仕事そのもの。
「遊ぶ」は友人との交流から一人の散歩、個人的な勉強など。
支点には「休む」を置いて、家事や休息で生命の健康維持を図ってきた。どこにも偏らずに穏やかなバランスで暮らすとき、幸福感が満ちる。
仕事がスムーズでないとき、良く遊べないし、正しく休めないので、心身のバランスが崩れ「集中できない、気が晴れない、眠れない」スパイラルにはまってしまう。
そんな低迷の時には、無理矢理「こんな日もあるよ。何でもない。大丈夫」と自分に言い聞かせる。動物が苦しい時にじっと丸まって耐えるように、流れに身を任せて、頑張らないことにしている。
カンフルとしては散歩や掃除が有効。
そして何とか努力して、仕事の資料を整理する。数行でいいから勉強する。好きな音楽を聴くなどのルーチンで5分でも10分でも過ごして、「いつもの私」でいるフリをする。根が単(ひとえ)にして純なのか、痛くて辛くても、悔しくても悲しくても次第に普段の気持ちに持ち直す。
ワークとライフのバランスが大事だと思っていても、物や情報があふれた現代ではバランスは簡単に崩れる。余分な物や情報がない世界は、もはや贅沢なことなのかも知れない。
平安時代末期の歌人・随筆家である鴨長明が、晩年を過ごした約3m四方(5畳半)の「方丈庵」は、炉を中心に「仕事(仏教、歌などの執筆)」「遊び(琵琶・琴などの趣味)」「休息(夜具を敷いて眠る、畳んで食事や雑事をする)」のスペースに分かれている。心乱すことなく生活を送ったという必要最小限の庵で「ワーク・ライフ・バランス」を完結させていて素敵だ。つくづく憧れてしまう。
が、考えてみれば規模は違っても、在宅勤務やフリーランス、SOHOなども同様の暮らしぶりなのかも知れない。
私も各スペースを分けているつもりだが、物が多過ぎて境界が崩れ、ミニマリストへの道は程遠い。せめて、と自分だけの就業規則に従い、揺れ動くワークとライフのバランスを死守している。
今さらながら、選択自由の分量が増せば、自己管理の規範も増すことを心しておこう。どこでどんな仕事・暮らしをしようとも、結局は自分の価値観のバランスを上手に取ることが、幸不幸を分けるのかも知れない。
2019年 11月 27日 (水) 銀子