待っていた秋風が、朝夕の窓から入ってくると気持ちが平らになり、身体も楽になる。
暑さが残るとはいえ、あれほど迷惑だった日差しも、今は容認できる晴天だ。
暑さでどんよりしていた頭が、幾分スッキリするように思うのは私の気のせいだろうか。
私には幼いころから夢想癖があって、ほぼ四六時中、どうでもいいことを考え込んでいて、注意されることが多かった。
「もしも私が蟻だったら角砂糖は大きな宝の山で、小さな家位の大きさ、巣に持ち帰るのは大仕事だろう」とか、
神宮の菖蒲田で若いドジョウを見つけた時は、「ここに生まれた彼(?)は隣の田も知らずに生きていくのだろうが、花影の下で暮らす幸運を理解しているだろうか」などと考えは尽きない。
今日するべき宿題もせずに、考えごとをしていた。至近のことより遠い問題の方が魅力的だった。 少しも褒められたことではないが、結果的に無才小人の私にとっては、百害あって一利のないことだったかも知れない。
しかし過去には、鳥になったこともないのに鳥瞰図を描いたり、見たこともないマントルを考えたり、宇宙や深海を描いた人がいたはずだ。
彼らも最初は面白がって始めたことに違いないが、思いがけず後世に役立つこともあるのだ。
今でも私は、キャベツを刻みながら、銀行の順番を待ちながら、頭を洗いながら、哲学のこと、天体のこと、建築のことなど、考えごとをしている。
といって、今日まで私の考えていたことが、自分の役にはたっても、他人の役に立ったことなど一つもないのだが。
むかし、友人から「行き詰ったとき、どうしているのか」と聞かれたことがあった。(らしい) それから何年もたって会った時に、彼女から唐突に「あの時、あなたが言ったことが忘れられなくて、それ以来ずっと実践してるのよ。ありがと」と言われた。
当時、ソクラテスに興味を持っていた私は、彼が長時間歩きながら弟子との問答を続けていたことを知って、
勝手に「歩くことで頭に酸素がめぐり、過熱しがちな感情を冷静に観ることができる」と思い込んでいた。
多分、私は「行き詰った時はベッドで丸まったり、机で頭を抱えるより、身体を動かす方がいい」と言ったに違いない。
今でも私は、行き詰ったときには感情に酸素を集中させないで、動くことにしている。
無闇に歩いたり、掃除をしたり、土いじりしたり。(行き詰っていないときも、同じようにするのだが)
そうしていると、あら不思議、課題がそれほど大きくない気がして、少し気持ちが広がったような気がする。
そんな個人的な私の癖が、彼女の穏やかな生活に少しでも役立っているなら嬉しい。
私は風のように世の中の「あれも面白い」「これも面白い」と眺めてみたいと思っている。古今東西、私の知らないことは多すぎて時間が足りない。 知らないことを知りたい欲望が、次の私の夢想を引き出す。それでこそ私には楽しい人生と思える。
今は五里霧中、ブーカの時代といわれている。
こんな時こそ、今隣にいる人を大事にして、すぐに実益にならないことでも、今自分ができることに専心すれば、見通しの良い視界が開けるかも知れない。
夢想している間に、ぼんやりした明るい方角に鳩が飛ぶのを見逃さないように、視力を鍛えておこう。
2020年 9月 23日 (水) 銀子