紅葉と同時に落葉も始まり、早い日暮れに急な肌寒さを感じる候。猛暑の疲れによる免疫力の低下、気候変化による体調不全の上に、社会・職場・家庭などの人間関係によって引き起こされる心理的な不安。現代人にとって、ストレスのない暮らしは得難い。
長い間、自由気ままに過ごして来たはずの私にもストレスはある。中でも記憶に残る大きく長いストレスとの戦いは、約17年前の3か月間の入院生活だった。
健脚自慢だった私の脚に異変が起き、痛みで歩けなくなった。
身の回りの全ての仕事を整理して、左脚変形性股関節症人工関節置換手術のために入院した。東京から約2時間、緑に囲まれた大きな病院は、手術~リハビリまでを一貫治療する整形外科中心の総合病院だった。入院患者は重度・重症で手術・治療・リハビリの難易度が高い人が全国から多く集まり、美しい環境に反して気が滅入る初印象だった。
それでも私は、ここで痛みを捨て健康を取り戻して再出発する意欲に満ちていた。「入院は心身を休めるいいチャンス」などと一度も思わなかった。ベッドで身動きが取れない状態でも気が急いて、足首から先だけを動かし、手のひらでグーパーを繰り返し続けた。
早く退院したい。早く自分の足で歩きたい。早く帰って自分の生活がしたい。
手術は無事終了したが、入院生活のストレスは想像以上に大きかった。直視できないほど大きな傷口に走る術後の痛み、一度は手放した筋力をつける辛い辛いリハビリ、大急ぎで済ます入浴、間食禁止・食事制限、などなど。
そうした入院生活の定番ストレスに加えて、人間模様も重く感じた。
自由時間は自分のベッドで過ごす人が多かった。おいしくない病院食を食べずに看護師の眼を盗んで、大量の自腹の「おやつ」を食べながらおしゃべりに興じる人もいた。静かに瞑想する人もいた。ストレスからか帯状疱疹を発症する人、睡眠導入剤なしには眠れない人もいた。
私はと言えば、禁断の「おやつ」を誘われて辞退したら「自分だけ、いい子ちゃんぶって!」と言われ、変わり者として浮いてしまった。どこから漏れたのか読み書きの仕事の噂が立ち、私が自分の体調記録のノート(毎日の体温や体重など)をつけていると「何書いてるの?私たちのこと?小説にでもするつもり?」などとあらぬ疑いをもたれた。その他いろいろ、治療に関するデマ、他人の噂、大きすぎるテレビの音.........病院という閉鎖空間で、ストレッサーは数知れない。うんざりした。
私のストレス軽減法は一人になること、リハビリに専心することだった。
理学療法の先生は「リハビリ好きだね。じゃ今日も放牧!」と言ってプログラム以外にも野外に送り出してくれた。雨の日は広い院内の廊下を巡って歩いた。山に続く森の小道、鴨が浮かぶ池回りなど、車いすで、松葉づえで、歩けるところはどこでも何回でも歩いた。病葉が舞う道を歩きながら、頭の中で「ここにいてはいけない」と繰り返した。自分に専心するとストレスは軽くなり、日々の細かな出来事は「人生に関わるほどの大したことじゃない」と思え、退院に向かって落ち着いて歩を進められた。
退院後のある日、経過検診で偶然に、かつて同部屋だった人と出会った。当時は互いに敬遠していたのに、まるで旧知の同窓生のように心から互いの健康と回復を喜び合った。同じ時期、同じストレスを共に味わった者同士のつながりか、かつての「面倒くさい人」が「懐かしい人」になっていた。当時のストレスは退院とともにスッと洗い落され、跡形もなかった。
こうして、ひと夏を過ごした私は仕事に復帰して、また新たに社会のストレスと向き合った。
「70歳を過ぎれば仙人のように悟って、ストレスなんか超越したでしょ?」という人がいる。(馬鹿言っちゃいけません)ストレスを感じなくなることはない。
ただ、長い間様々なことを見てきたので、「ストレス」というものの存在を受け入れられるようになった。他人のストレスも想像でき、幾分の思いやりが持てるようになった。ストレスを無くすことはできないが、ストレスとどう付き合うかは個人の裁量で見つけることだと知った。これらは年齢による知識ではなく、入院体験による学習なのかもしれない。
そして高齢者になった今、「人と人」ではなく「高齢者と私たち」で線引きされてしまう世の中に、新たなストレスを感じることがある。そんな時は、「未知なるものに対する偏見にまだ気づいていない朗らかな人達、40年後にまた会いましょう」と胸の内でつぶやくと、ストレスがほんの少し減ったように思う。気のせいかな。
2019年 10月 30日 (水) 銀子