2月。
立春は過ぎたものの、「衣更着(きさらぎ)」の名の通り、厳しい寒さに衣服を重ね着している。縮こまって、すべきことを日延ばしにしていると、「二月は逃げて走る」といわれるようにすぐに過ぎる。内定者であれば近づく新生活の準備に本腰を入れる、成長へのステップの時期でもある。
私が20歳頃のこと。
15歳下の従妹とジオラマを見ていると、彼女が「お姉ちゃま!川が曲がっているよ」と言った。なんて素敵な発見。「あれはね。蛇行といって......」と川の変化を三日月湖の成り立ちまで含め説明した。
別の日、お風呂の湯を混ぜていると従妹が「お姉ちゃま。何してるの?」と不思議がった。なんて素敵な疑問。「これはね、対流といって......」と温度の説明をした。
わからなくてもいい。なるべく簡単に正しいことを伝えたいと思った。子どもが疑問に思ったことに、子どもだましの幼児語で「かわさんがね......」「ちゅめたい、おみじゅがね......」などと答えたくなかった。
もちろん彼女は、理解していないし、すぐに忘れて覚えていない。
それでも彼女が目を輝かせて聞いていた数分間は、彼女の脳内で微小な電波が起き、シナプス(情報伝達のためのつなぎ目)が活発に伸びているのだと思うと嬉しかった。
私もまた子どものように、知らなかったことを聞くと脳内でシナプスが働いているのだろう。すぐに忘れてしまうが。
30年ほど前、母は70歳をとっくに越していたが、若々しくその年も確定申告を自分で済ませ、大学の公開講座に通い、おしゃれで元気だった。
ある時、風邪から肺炎になり入院した。
症状が落ち着いても息苦しいらしく、言葉は力なかったが話す内容は確かだった。母を担当するベテラン看護師は、明るくテキパキと仕事をこなし、一日に何度も顔を出してくれた。しかし私には気になることがあった。
「おばあちやん・おはよお!い~いっぱ・い・たべてね~」「あ~ら。お熱ないみたいね~え」などと歌うように大き過ぎる声を掛ける。
何回目かに、私は思い切って言った。
「いつもお世話になっております。(ベッドに名札が掛かっていたが)母は〇〇✕✕子と申します。今は力が入らず声が細くなっていますが、耳は遠くありませんし、お話も理解していますので、普通にお話しいただいて大丈夫です」「あ~ら、よかったねえ~、おばあ~ちゃん!」と大声で言う。母は嫌がって顔を背けるが、「きこえるう?だいじょうぶう?」と母が返事をするまで大声で言い続けた。
以降も彼女の対応に変化はなかった。
多分、彼女にとっては「患者に親しみやすく笑顔を絶やさない、善意で献身する優秀な白衣の天使」のマニュアル通りなのだろう。悪意があるとは思えなかったが、私は「耳が遠くて言葉が不明瞭で、認知機能が低下した年寄りを上手く扱うための画一的・効率的な対応」エイジズム(老人蔑視)を感じた。
私たちの静かな時間を侵害されて、母と私は傷付きウンザリして、なぜかしら力が抜けて病気と闘うモチベーションが低下してしまった。脳内のシナプスが急停止したような気がした。(大声を聞くのは疲れるし、逆らっても仕方ない)
後年になりパターナリズム(父権的権威)と合わせていわれる「ペイトロナイズ」というものを知った。
パターナリズムとは、強い立場の者が弱い立場の者のためと考えて、良かれと思って本人の意志にかかわらず介入・干渉・支援すること。ペイトロナイズとは、さらに「子ども扱い(子ども騙し)をする。見下す、馬鹿にする」という意味を伴う。親しみやすさを伝えるためのタメ口が過ぎて、患者の自尊心と品位を傷つけ、生きる気力さえ奪いかねないといわれている。
こちらに悪意がなければ問題ないとする思い込みは誰もが犯しがちな勘違いだ。自覚なしに善意の押し付けで人のモチベーションを下げてしまうこともある。話として聞くと理解できるが、誰でもやりかねないことだと思う。
しかも病室や職場のような閉鎖空間では逃れようがない。私自身、重々くれぐれも気を付けなくてはいけないと思う。
人間同士が互いにシナプスのモチベーションを弱らせたり、あるいは活性化させてシナプスの成長に寄与したりを約200万年も続け、少しずつ少しずつ進化してきたのかと思う。
しかし、いまだに他人の気持ちに対する不注意で互いに傷つけ合っている。つくづく人間はタフにして鈍な生き物だと思う。言い換えれば、成長が遅いから勉強し続ける能力を与えられているんだとも。
2020年 2月 12日 (水) 銀子