私の住まいは4階にある。1階の庭には金木犀の大木があって、甘い香りがここまで届いていた。それも花期を終えて、今は丸くなったスズメの遊び場になっている。
4階でも寒暖差以外に季節の便りは届く。タワーマンションの上階では、どうだろう。雲の形で季節を知るのだろうか。
かつて日本には「モーレツ社員」という言葉が流行ったり、バブル期には「24時間働ける」ことが元気な象徴だった時代があった。
しかし最近はよく「頑張らないで」と耳にする。コロナ禍の影響だろうが、私から見れば隔世の感がある。
「頑張らないで」おうちで楽しく過ごす方法や、長閑な田舎に移住した体験談などが紹介されている。
私は100年前から頑張らない主義なので今さらだが、世の中の人はそんなに頑張っていたのか、と改めて驚いた。
私だって頑張った(と、思う)。勉強もしたし、仕事でも昼夜を分かたずに働いた。
しかし振り返ってみると、あんまり「頑張った」記憶がない。なぜだろうと考えると「好きなことだけに頑張って、競争したことがなかった」ことに気が付いた。 頑張ったけれど、自分のこと以外に熱中したことがなかった。
小学校の通信簿にはいつも「競争心が不足」「努力が足りない」と、弱点として書かれていた。 徒競走で負けても平気、100点も取るが落第点も取る、などが続いても悔しくなかった。 負けん気の強い同級生が、徒競走で負けて泣いているのが不思議だった。
家族は私が勉強してもしなくても何も言わなかった。 いつも「あなたが本当に自分はそれでいいと思うなら、いいのよ。私のことじゃないから」と突き放して言われたが、 私は本当にそれでいいと思っていた。今から考えると、好きな勉強しかしない、頼まれなくても余計な勉強には集中する、学校に熱心じゃない子を持って親は心配したことだろう。 確かに私は、心配な子だったのかも知れないが、「人は人、自分は自分」という考え方に救われていたのかも知れない。
子供の遊びの多くには勝ち負け優劣があって、人は幼時から競争の中でハングリー精神を養い、自然に戦術を身につけて成長するのか。
私には別世界のように感じられるが、現代の競争社会には必須の能力なのだろう。受験戦争で生き残る、就職戦線で社会的な席を勝ち取る、組織内の競争で重要ポストに登り詰める。(すごい!)
やはり自分に打ち勝って上昇するパワーは、他者との競争によって培われるのかも知れない。
競争があれば頑張れるかも知れないが、しかし人は競争のためだけに頑張る訳ではない。
大学の同級生に非常な勉強家がいた。物静かでニコニコしている地味で痩身小柄な彼は、いつも優秀な成績だった。
地方から家族の期待を背負って上京し、何とか立身することが彼の使命だった。
食べる物も着る物も必要最小限にして、真面目にコツコツと勉強し、夜は寝る間も惜しんでアルバイトをした。
成績はよかったが顔色は悪くなり、さらに痩せて小さくなっていった。しばらくして、病気になって退学し田舎に帰った、と人づてに聞いた。
親しかった訳ではないが、何だか悲しくて胸が痛く「そんなに頑張らなくてもよかったのに」と思った。競争もせずに頑張っただけなのに、彼は疲れ果ててしまった。
70歳を越して、私はこの会社に入って初めて、孫世代のような初々しく美しい女性も、清潔で礼儀正しい男性も、向学心にあふれ、皆が高いスキルをもって社会に貢献していることを知った。 こうした頑張る人々によって日本の経済は支えられ、私たちの暮らしが支えられていることを初めて実感した。彼らの頑張りが社会の礎になっている。
「頑張らないで」などと簡単に言ってはいけない。頑張ることが血肉になって身についている人たちに感謝しなくてはいけない。 それでも「仕事は人生を豊かにするもの、仕事で人生をすり減らしてはいけない。根性は身体に勝てない」と私は思う。
だから、自分のためだけの世界に遊ぶ余裕を残して、頑張らないで。
2020年 11月 25日 (水) 銀子