季節の寒暖を分けるという彼岸を過ぎても、気温が定まらない日が続いたが、ようやく落ち着いてきた。朝夕の空気が澄んで秋色が濃くなっている。
いつの間にか、掌で包む温かいお茶が、ホッと嬉しい季節になっている。誰にとっても穏やかな季節の到来でありますように。
円相というものを、ちゃんと見たのは高校生の頃だったか。当時、少し茶道を習っていた。私は「お茶を出されたら、いただける程度でいい」と思う不届きな生徒だった。
しかし稽古先はきちんとした先生で、茶室の床には季節に応じた軸物や茶花が飾られて、因んだ器やお菓子が出された。その時々の事由の説明が稽古よりも面白かった。
ある日、床に掛けられていたのは、ひと筆で〇を描いた掛け軸だった。円相だ。
円相とは禅の書画の1つで、〇は完結することから悟りを、または「メビウスの輪」や「ウロボロス」のように始めも終わりもない完全宇宙を表すとか、
丸は輪であり和に通ず、というものなど、人によってさまざまな解釈や描き方がされる、と説明を受けた。
◆示さずに促す
江戸時代の禅僧、仙厓義梵(せんがいぎぼん)は、〇を饅頭に見立てて「これくうて茶のめ」と書いた。「まぁ落ち着いて、これ(饅頭)食べてお茶でも飲みなさい」 〇に深淵な理や訓え・戒めを見出そうとする人が多いのに、「ゆっくり自分で考えなさい」と温かく突き放されたようで、何だか自由な広さ、寛容な厳しさを感じた。 なるほど、甘いものは脳内の幸福物質ドーパミンやセロトニンを増やすという。少し気持ちに余裕が生まれるだろう。
生き物は常に社会の流れの影響を受けているが、全国的な感染症拡大は人の心理にどんな影響を及ぼしているのだろう。 短絡な犯罪が増える一方で、過激な正義の人も増えている。約1億3千万の日本人の前頭葉が劣化しているのか、不安からか、イライラもまん延しているように思う。 日々、心の中で「これくうて茶のめ」とつぶやくことが多い。
◆命を守る「あそび」
工学的な「あそび」とは余裕のことで、温度差などによる伸縮に耐えられる、設計や材質の変化をいう。 車のハンドルや自転車のチェーン、鉄道レールに「あそび(無駄)」がないと危険でもある。計算上の予測値と真の値との間には、必ず誤差が生じることは証明されている。 予定通り、決まり通りにいかないことは、当たり前の誤差なのだ。まして人の心情は計り知れない。
もともと人間は思う程、格好いい生き物ではない。大切な人や動物を亡くして涙に暮れているときも、 私は席を立って、鼻水をかみ、トイレに行き、お腹が空けば何か食べ、ゴミを片付けた。生命維持のために、浅ましくも悲しみより優先することは沢山あるのだと、つくづく思った。 生来が緩くて鈍感なせいかもしれないが、悲しみでも苦しみでも怒りでも、優先する行動がとれる間は生物学的に、まだ余裕があるのだと思うことにした。
◆「あそび」は伸びる余地
かつて日本が混沌とした成長期だった頃、学者・政治家・芸術家・市井の人にも、多彩な人がいて面白かったが、今はみんな賢く整って、つまらなくなっている気がする。
何かといえば、敵か味方か、白か黒か、0か100か、INかOUTかの二値的な世の中になった気がする。
眼のまえには無数の選択肢、限りない解釈が広がっているのに、思い詰めて自らを「どちら」かの世界に追いたてる。
これが成熟時代の特徴なのかもしれないが、「あそび」がなくて危険な気がする。
もとより自分にも他人にも、あまり期待を寄せない私は、その分自由に面白がって片身狭く暮らしてきたが、最近、密かに自分を見直している。
私は怒りや恨み、不幸や失敗に対する感情が持続しないのだ。悩みや悲嘆がないわけではないが、お風呂に入れば忘れて、形状記憶合金のように回復してしまう。
限りなく融通が利く「あそび」の塊だなんて、(ほめられたことではないが)これこそ時代の最先端、レジリエンスではないのか?
仕事は契約・取引・約束だから、「あそび」を優先するわけにはいかないが。 それでも過去になってしまったことを悩んでも片付かない。後悔や反省は明日のための栄養にすればいい、と私は思う。 少し辛い、少しおかしい、少し足りない、少し不愉快、少し不満。「少し~」を頭につけて考えると、まだ限界ではないと思え、幾分の余裕が生まれて頑張れる気がする。(勘違いか?) それより饅頭をくうて茶を飲む方が、脳には有効かな。
2021年10月20日 (水) 銀子