年明け4日には世の中の多くは日常に戻ったが、同じ週末に町で華やかな振袖のグループを見かけた。今は成人の日はハッピーマンデー制度により1月第2月曜日になったが、 1999年までは1月15日だった。昔、小正月と呼ばれるその日に、元服の儀が行われていたことによるらしい。
◆成人の日
「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」趣旨から制定された成人の日だが、 ニュース画面に出てくる多くの若者の趣旨は「今日から飲酒解禁、今日だけは無礼講」になっているように見える。
私は小学校から都心の一貫教育校に行ったため、地域には顔見知り程度の友人しかいなかった。 それで地区の成人式には出ずに、同窓の高等部の仲良しだった友人たちと、叔父が予約してくれた高級中国料理店に行った。 久しぶりに会う友人たちは、振袖ではないが、よそいきだった。 成人といってもまだ親がかりの学生たちで、個室に運ばれてくるコース料理がうきうきと嬉しく、成人の自覚よりも大人らしい会食に興奮していた気がする。 根はニュースの若者たちと同じような気分だったのだろう。
個人的には20歳の誕生日前後に、用意された赤飯と好物とワインで「しっかりしなさい」などといわれながら本真珠のセットをもらい、家族に祝われた記憶がある。
その時は「ありがとう」の気持ちだけだったが、本当はもっと「大人」の意味を考えるべき時だったのだ。
◆ハレとケ
晴(ハレ)と褻(ケ)について、民俗学や文化人類学上では、さまざまな学説があって結論は定まっていないようだが、一般には大まかに非日常のハレ、日常のケと捉えられている。
苦労が多く面白くもない平々凡々なケの日々を送る多くの人にとって、時たまの祝い事や祭りのハレは、モチベーションを取り戻す褒美のような時間になるのだろう。
日本特有の生活感覚だそうだが、どこの国でもどんな立場でも同じではないかと私には思える。
庶民の疲弊を癒して意欲を鼓舞するために、政策として祭りを創った内外の為政者は多いし、いつの時代も歳時の多くは、人々のストレスを軽減して日常がリセットされるハレなのだと思う。
学生の頃、私はジャズバンドのサークルに入っていた。もちろん、好きなこととできることは違うので、私はスターティングメンバーではなく、舞台の袖で楽しむ一方だったのだが。 学祭などで大盛り上がりしたステージの終盤、スタンダードナンバーの「The Party's Over」が流れると、ほとんど涙ぐましくなるほど聴き入った。 恋に破れたからではない。格好よく言えば、「良い時間も悪い時間も、過ぎて再びは戻らない」という感慨からだった。その通り、昨夜は風船や紙テープが落ちていたキャンパスも、翌朝には平常に戻っていった。 英語圏ではスラングとして、楽しい昼休みが終わるとき「The party is over. Let's get back to work. (さぁ、この辺にして仕事に戻ろう)」などというようだ。 現代風に言えば、onとoffの切り替え時だろうか。いつでも終わりは、日々是新たな次の始まりなのだ。
さて、夢のように穏やかだった正月休みを終えて、仕事に戻る。少しずつ快い労働のストレスが積まれるケの日々が動き出す。 既に還暦を過ぎた私は、今、第2の人生の未熟なままの育ち盛りだ。スピードは衰えているが、そう思いたい。かつて多くの人に呆れられつつ助けられて育ててもらったが、 今再び、高齢就業者として多くの人の力を借りて育てられている。私にとっては、仕事は育ての親だと実感する日々だ。 1回目の成人の日とは違って、次のハレの成人の日までに改めて自分にとって大人になる意味を考えてみよう。...と、去年も思った気がする。
2022年1月12日 (水) 銀子