目には青葉、香り高くまろやかな新茶を飲んだ。節句には菖蒲湯にも入ったし、筍ご飯や初鰹も楽しんで平和な休暇だった。
同じ時刻・同じ空の下に、飢えている人・眠れない人・人間の尊厳を脅かされている人がいる哀しさ、痛みは少しも減らないが。
毎回、能天気なコラムを許してくれている自社に私は感謝している。
当コラムは自社の売り上げに直結しない閑話に過ぎない。
ビジネスに気を向けている人々の中で、どれほどの方が読んでいるんだろうと心もとない。が、時々銀子宛にお便りをいただくと、ありがたく嬉しく癒され励まされる。と同時に緊張もある。
上司が「ちゃんと読んで下さる一人がいるということは、その奥にもっと読んでいる人がいるということですよ」と慰めてくれる。
かつて広告の仕事をしていた頃、一人の共感・一通の批判の裏にはさらに多くの意見があって、すべて成長のための財産だと身に染みていた。気を緩めず落ち込まずに精進する糧になる。
初めてゼロを数として認識した古代の話に、ゼロにはゼロの意見(意味・存在)があると、大きく感銘を受けたこともある。
◆「数学的」の向こう側
専攻はもとより、私は身も心も理数系の人間ではない。ルート計算や方程式も忘れた私がいうのも不遜だが、実は学問としての数学の中身ではなく発想に興味がある。 現実の社会生活や実業では数字を読む観測や分析・数学的な発想は不可欠なスキルだが、学問としての高等数学の領域はほとんど哲学だと私には思える。 数学だけではなくすべての学問はいつもクリティカルな仮説が必須で、既存の原理原則に従うだけでは新しい発見は難しい。
◆エキサイティング数学
数学上の未解決問題(未だ証明が得られていない難解な命題)は数知れないが、中でも有名だったのは17世紀フランスの裁判官ピエール・ド・フェルマーの最終定理だ。
長い間、証明も反証もなく「フェルマー予想」とも呼ばれた。約360年もの間、数学者や哲学者・数学愛好者が挑戦しても検証しきれなかったが、イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが完全証明した。
「フェルマーの定理」と呼ばれていたものは、今では「ワイルズの定理」になった。(数学では未だ解かれていない問題を多くの場合「○○予想」と呼び、完全に証明されると「○○定理」と呼ばれるようになる)
私には、数式はおろか説明を読んでも、正誤はもちろん何のことやらさっぱり分からない。そもそも、それが解決したところで何のためなのか・どんな役に立つのか見当もつかない。
おそらくは物理・宇宙・天文・光学など超規模の計算に役立つのだろう。
が、手で触れてつかめない頭の中の未知の世界に、仮説を頼りに手探りで進み挑戦し挫折し逡巡して、次なる発想につなげて結論に至る過程を知ると興奮してしまう。
◆数学の原理原則
最近では、世界から天才と呼ばれる日本人数学者・望月新一が自身の『宇宙際タイヒミューラー理論』によって「abc予想」を証明した、というドキュメンタリー番組を観て大きな衝撃を受けた。
私たちが知る数学は1+1=2、誰にでも納得できる同じ結論が原則だった。
「数学とは(一見して)異なるものを同じと見なす技術である」と19世紀フランスの数学者・理論物理学者・科学哲学者ジュール・アンリ・ポアンカレは言った。
例えば、トポロジー(位相幾何学)では、切り離したり貼り付けたりはしないが、伸ばしたり引っ張ったりして変形させても同じ規則をもつものは同じものだとする。
同じ解を図表で表したり数式で表すことができる。これは現代数学の原理原則だった。
◆認識の差は埋められるか
しかし『宇宙際タイヒミューラー理論』ではその原理原則を覆して、「人間の思考は、2つのものを同じだと認識(解釈)することもあるが、同時に全く違うものだと認識(解釈)することもある、矛盾をも包み込む高い柔軟性を持っている。
だから数学もそうした柔軟な形に進化する道があってもいいのではないか」として、原理原則に縛られない仮説を立てて「abc予想」を証明した。
既に2012年8月に査読(学問分野の査定)が終わって発表されているが、当然異論・反論が続出して、論争はとめどない。
従来のイメージで研究してきた多くの数学者が理解できないのは、証明する能力のギャップではなく、対象に関する認識の違いが理解を阻んでいるともいわれる。
望まれるのは、早急に新しい数学の言語体系をつくり、今までの数学との違いを完全に言語化して認識のあり方を説明することだ、と番組は終わった。
◆Noといえる人間
専門的なことはわからない。しかし私は、「同じものでもあるし、同時に異なるものでもあると見なすことが重要だ」という一言に強くひかれた。
まるでギリシャ神話の「テセウスの船(正確に修繕し続けた船は元の船と同じか、という問い)」のように、永遠の命題なのかも知れない。既存の原則概念に縛られないことは、新たな広い原則を生み得る。
とはいえ、誰もが納得できる認識ではないだろう。新しい数学へと進化する過渡期なのかも知れない。いつかゼロの概念と同じように、ごく自然な発想として数学の常識になる日が来るのかも知れない。
かつて望月氏はなりたい人間像を問われて「Noといえる人間」と答えている。長く信じられてきた壮大な学問を相手に、なんという重い改革の「No」だろう。
2022年5月11日 (水) 銀子