立夏を待つようにして気温も安定してきた。人の世の波乱は時を選ばないが、日本の季節の流れはほぼ順当に進んでいるようだ。高値に迷いながらも季節の初物を買って寿命を延ばし、来るべき厳しい暑さに備えよう、などと山海からの味覚の誘惑に負けがちな五月でもある。
そういえば近頃あまり耳にしなくなったが、昔は「メーデー(5月1日May day)の歌」というのがあった。私が生まれるずっと前から歌い継がれていたらしい。季節の風物詩になっていたメーデーの様子を伝えるニュースで聞く、2拍子の覚えやすい歌なので深い意味など考えずに私も出だし部分だけは知っていた。
■集団の声・個人の声
本来のメーデーはヨーロッパの春を祝う祭典だったが、1886年5月1日アメリカで8時間労働制を要求する統一ストライキが行われたのを境に、労働者の権利を要求する「労働者の日」と認識されるようになった。日本では1985年のメーデーに週40時間制の労働条件を要求している。その後、労働制度が充実化すると次第に労働運動としてのメーデーは変容して、現在は祭典の意義が大きくなっているようだ。
振り返って大昔から働く人はいたのに、欲求5段階説※1 の第2段階・労働の「安全」が本気の課題として認知されるまで、長い時間がかかっていることに驚いた。もちろん時代の成熟とともに機材や作業の技術内容が高度化し、安全も身体だけでなく個別の精神面まで含むようになるなど、安全の基準範囲も変化しているのだが。そして安全に完全な正解などないのだが。それでも安全に働けることこそ生産性を上げるための第一歩という概念が、未だ多くの国や多くの仕事現場で周知徹底されていないことにも驚く。
少なくとも日本では、まだ途上ではあっても集団で切実なシュプレヒコールを上げなくても個人の声が届きやすい環境になりつつあるのかも知れない。またソーシャルネットワーク等の進展で、個人の発言が容易になったことも影響しているのかも知れない。
■個人の意思・全体の意思
「全体」は個人が集合してつくられ、「個人」は全体の一部でもある。異なる形態であっても、「個人」を内包する「全体」は時代または社会の風潮や傾向を表し、独自の考えに見える「個人」の言動は「全体」が抱える課題を象徴しているともいえる。一見、矛盾なく世の中は動いているように見えるが、私はひそかに案じている。
匿名の個人参加が可能なソーシャルネットワークなどでは、時には個人の自由な情報選択によって個人の正義が固定され、一方的な事件に発展することもある。また、考えずに社会全体の風潮や傾向に同調することで、あたかも自身の意思であるように納得してしまう場合もある。個々の主義主張があるように見えて、いつの間にか「全体」の雰囲気や勢いに流されて、大きな不善に加担してしまうこともあるのではないか。
個人の自由や正義に固執せずに、しかも全体を冷静に観察して個人が取捨の判断をすることは、思っているより難しい。
■私の節操
私はといえば、学生時代に仲良しの男の子に何度もすすめられて、(それまで家族にすすめられても頑として受け付けなかった)クサヤを口にしたとたん好物になってしまったことがある。家に帰って母に話すと「あなたは節操のない人ですね~」と言われてしまった。
食べものだからいいけれど、地球や国家・職場や家庭などが危急存亡の秋(とき)※2 私はどう行動できるだろうか、正しく判断できるか心もとない。潔くきっぱり転向する勇気も、さしたる根拠もないままに自説を貫く信念も、多分生半可だ。
そんな時が来たらいつでも、後悔しない決断ができるように、日頃から広くアンテナを張り思考を深めておかなければならない。今既に危急存亡の秋が近づいているかも知れないのだから。
2023年5月1日 (月) 銀子
※1 1943年アメリカの心理学者アブラハム・マズローが『人間の同期に関する理論』中で発表
※2 中国三国時代の武将 諸葛亮(孔明)が北伐に際して主君に宛てた『出師の表』内の一文。秋は「とき」と読む