暖冬とはいえ、寒中の水は厳しく冷たい。まして家事・育児・仕事・学業、休養・交流・計画・思い出などが、一変してしまった被災地の寒さを思う。変哲のない平和な日常を、再び積み上げる新しい季節・新しい世界への歩みがどうか恙なく進みますよう、お祈りしている。
小学生の頃だったか、母に連れられて度々訪問した(どういう関係なのか忘れてしまったが)親戚があった。その家は母よりも年長の夫婦とその息子でユニークな教育方針の幼稚園を経営していて、家族を互いに「〇〇先生」と下の名で呼び合っていた。母は〇〇子先生に可愛がられていて、時々開くお茶会に誘われていた。お茶会といっても4~5人の気の合う女性たち(時々、夫先生も参加した)が手芸をしながら、季節のお菓子を食べたりお茶を飲んだりおしゃべりをする集まりだった。挨拶が済むと私はすぐに息子先生の部屋に行った。彼は大学院で哲学だか言語学だったかの博士号を取ったが、それでは就職は難しく家業を手伝っていたらしい。
彼の部屋には書物があふれていて、大方は難しい本だったが中には子ども向けの本もあった。彼が机に向かって何かを読んだり書いたりしている間、私はどの本を読んでもいいことになっていて、何か質問すると彼は面倒がらずに分かりやすく答えてくれた。本の内容や筆者の解説ではなく、何を問題にしている本なのか、を簡単に教えてくれた。私はそこで『遠野物語』や『神曲』を知った。
■不明の入り口
ある日、不思議な絵が描いてある美しいブルーの表紙の本を見つけた。正しい書名も作者も覚えていないのだが、4次元に関する本だった。「??? 四次元ってなに?」彼は3次元までの説明を簡単にして(ここまでは私にも分かった、ような気がした)、「視覚で確認できない世界として例えば時間などの空間を加えた世界のこと。もっと多い次元、例えば速度や曲がり・歪みなどを加えた宇宙のような次元もあるといわれている。」と言い「見えることが全ての真実ではない。確かにあるが見えない世界を証明することが学問ともいえる」といった話だった。
分かったような、分からないような。多分この先は自分の理解の速度で考えないと、なおさら分からなくなると思った。ユークリッド幾何学やベクトル空間、メビウスの帯やクラインの壺などに触れたのはもっと後のことだった。もちろん今でも他人に説明できないくらい、何となくしか分かっていない。ただ私は何も分かっていないんだと、ハッキリ分かった。
■楽しい習慣
しかし当時の私には、見えない別の世界があるらしいことだけで充分素敵だった。その後に読んだSF小説も楽しめた。仮定や仮説を考える数学や物理、哲学も同様に面白いと思い始めた。当時からの習慣で今でも、机にあったはずの消しゴムがなくなると「別の世界で誰か使っているのかしら(用が済んだら返してね)」と思っていると、いつの間にかどこかに返してくれている。正しいと信じている電話番号にかけて誰も出ないと、どこか別の世界で虚しくベルが鳴り続けている想像をしてしまう。何だか少し不思議で素敵な気分になる。
なぁんてね。実はただの加齢による物忘れ・多分不注意による覚え間違いなのだろうが。(多次元世界より分かりやすい)同じ次元の知らない並行世界(パラレルワールド)と共存していると感じた方が楽しい。10代でそう言うと空想好きと思われるが、70代でそう言うと妄想を伴う認知力低下だと思われそうなので(思われてもいいけれど)、あまり他人には言わない。
通常の会話で「次元が違う」というと、理解できない・常識とかけ離れている・レベルが違うなどを大袈裟に例える形容詞もしくは修飾語として使われることがある。が私は内心、真面目な場面では簡単に使わない方がいいと思っている。見えない世界を引き合いに出して、現実の見える世界に持ち込もうとするのは、浅薄で不遜に聞こえ認識や見識・信憑性や品性を疑われやすい。少なくとも誠実で率直には聞こえない。
現次元に生きる私たちは、今大き過ぎるものを失くした方々に誠実に向き合おう。誰にとっても他人事ではない、この世の出来事なのだから。
2024年1月15日 (月) 銀子