日中は暑さが残るが、朝夕は新涼(初秋の涼気)を感じるようになってきた。海の味・山の味も出揃い始め、厳しい暑さを乗り越えた体に優しく秋の食卓を彩る。中秋の名月は過ぎても、秋はなべて月が美しい。食卓に小さな七草でも活けて穏やかに季節替わりを迎えよう。
秋の七草は、万葉集の山上憶良が詠んだ和歌「萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 をみなえし また藤袴 朝顔の花」から言われ始めたとされる。「尾花」とはススキの穂、「朝顔の花」は今でいうキキョウのことらしい。若い頃は「ハギ キキョウ クズ フジバカマ オミナエシ オバナ ナデシコ」と覚えた気がする。だが私は「吾亦紅(ワレモコウ)」が好きで、実家でもよく他の花と組み合わせて活けていたので、七草の中に入っていないことが不思議だった。(残念だが仕方ない。憶良が見渡した所に吾亦紅は咲いていなかったのかも知れない) 七草は月見に供えられたが、中でもススキは稲穂に見立てて作物を災厄から守る魔除けとされたようだ。そうした意味がなくても、月夜に白く輝く穂ススキの波は美しく、充分に引き込まれる魅力がある。
◆月との交流
月見は平安時代に中国から伝わった歳時で、欠けのない中秋の名月(旧暦8月15日頃の満月)に五穀豊穣を祈念する行事だったといわれる。後に貴族から一般にも観月の宴として広まり、「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」などと親しまれた。満月は毎月あるが、秋の満月が特に美しいのは、大気中の湿度が減って月の形がクッキリ見えるからだ。
狼男は満月の夜に変身するとされるが、私も月を見ると気が引き締まり励まされてよみがえる感じがする。満天の星だけでも身が洗われる思いがするが、月には見守られているような安堵と激励を感じる。無月の夜も、見えなくてもそこにある安心感がある。大昔から人々の願いや祈り、喜怒哀楽を受け止めてきた月は、鏡のように反省を促す存在なのかも知れない。神話では、日の神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月の神は月読命(ツクヨミノミコト)として昼夜を分かつ神だった。夜は人が正直な自分に気づける時間なのだろう。
十五夜の満月から十六夜。十七夜は日が沈んでから立って待てるほどの時間で月が出るので立待ち月。十八夜には座って待つ居待ち月、十九夜は寝待ち月、二十夜は深夜まで待つ更待ち月。次第に月の出が遅くなり、欠けが大きくなる風情も身近に思える。 科学の発展により月への移住計画が浮上して環境分析が進んでいるが、私はやはり地上から仰ぐ、遠くて近い大いなるものとして愛でたい。(と今は思っているが、移住が現実化すれば率先して手を挙げてしまうかも知れないのだけれど)
◆祖母の月夜
今から40年以上も前の2月の満月の頃、実家の庭には梅が咲いていて夜でも良い香りがした。ある夜仕事から帰ると、すぐに何でもない風になったが確かに母が居間で泣いていたようだった。当時、元気だった祖母が風邪から肺炎になって珍しく寝込んでいた。入院を嫌がったので酸素ボンベを部屋に持ち込んで毎日往診を受けるほどだった。あまり我儘を言わない人なのだが、その夜に限って、どうしても梅が見たい、月が見たいと言ったそうだ。暗いから明日にしましょう、と言ったが聞き分けなかった。それで母は温かに包んだ祖母を背負って、庭に出た。祖母はとても喜んだらしい。2月にしては暖かで静かな月夜だった。 2週間ほど経って、回復に向かっているはずの祖母は容態が急変して亡くなった。私は祖母の月夜の散歩にはいなかったが、その時の母の気持ちを思うと、今でも涙がにじみ出る。母がそうだったように、私も月夜の梅の香りに祖母を思い出す。
太陽を直視することはほとんどないが、月には目を向ける。だから身近に感じるのかも知れない。
2022年9月28日 (水) 銀子