柔らかな日差しと爽やかな空気が満ちる街路には、まだ木々の緑が残っている。こんな日は湖畔を自転車で一周できる気がする。こんな日は浜辺を馬で走れる気がする。こんな日は当てのない旅の出発に最適だ。勘違い・妄想なのだが、思うだけで充分楽しめる日だ。
古い友人と会って○○ちゃん・△△君と呼び交わしていると、現状を忘れて何でも昔通りにできる気がする(気のせいだが)。孫が社会人になるような世代なのに、目の前の老いた風貌ではなく、その昔の若く元気な相手と話している気がする。勘違いなのだが楽しい。
若い人の前で寿命の話をすると、気遣いの空気になって「いやいや、そんな。まだまだ元気ですよ。そんなこと言わずに長生きしてください」と返されることが多い。みんなが思うほど、高齢者は(少なくとも私は)自分の年齢を気にしていない(老いを忘れている)のだが。なんせ本人も高齢者になるのは初めての経験なので、「わが身にこんなことが起きるんだ」と経年劣化の進捗を楽しんでいるのだから。「ふ~ん。なるほど」と聞き流してもらってよいのだ。でも無礼者!と切れる人もいるので、やっぱり年寄りの扱いは面倒なのだろう。
■いつか来る
もう何年も前の話だが、ある日用事の帰り道で、ばったり知人に出会った。彼は孫世代の若いデザイナーで、一時一緒に仕事をしたことがあって、バカな話が通じるほど親しかった。彼も用事の帰りで、久しぶりだったので昼からビールを飲んだ。ちょうど国際的なスポーツイベントの時期で、地球温暖化が進むというのになぜ過酷な季節に過酷なイベントを開催するのか、といった話をした。もちろん放映利権や経済効果などが理由だが、日頃から環境保全・社会貢献などと喧伝していても、やはり人間は人間の健康よりも今得る利益を優先するのだ。
「4年後はどこの開催?」と聞くと「XXXですよ」「その次は?」彼は思い出せなかったのだろう。「む~ん......いつまでスポーツ観るつもりですか。そんな先の予定、もうソロソロ知らなくてもいいんじゃないんですか。あ、でも化け物(私のこと?)だから分からないな、自分で調べてください。アハハ」「アハハそうか、そうね。その頃には私いないかもね。でも万が一、長生きするかも知れないから、自分で調べるわ。アハハ」と笑った。
寿命をズケズケ言われても、腹が立たない程度に仲良しだった。
■遺すもの
地球温暖化・未知の感染症・人口減少・食料不足、経済の疲弊・科学の進歩と弊害・制度や機関の劣化・政争や競争・人心の荒廃などなど、一体この先どうなるのだろうと思うことが山積している。もちろん、それぞれの対策や対応のため日夜努力を重ねている人がいる。私たち一般人にも何かできることはないか。と、コツコツごみの出し方、調理の方法、物の使い方などを工夫してはいるが、どうも焼け石に水のような絶望的な予測がぬぐえない。私たちの10年の努力は、1回の災害・1発の爆弾で無に帰すばかりか、被害は幼く弱い者順に大きくなっている気がする。次代を背負う子どもたちへの遺産は、どんどん質が低下している気がする。幸か不幸か、私には親・兄弟も夫も子も既に無く、心を遺す何ものもないのだが、それでも公園で遊ぶ子供たちを見かけると、健全な世の中を遺せそうもないことを詫び、どうか負けない力をつけて健やかな人生を送ってほしいと願わずにはいられない。
■彼らの時代
原則としてSDGsに心掛け、世情に胸を痛め、今自分にできることを感謝とともに行う、という良識的な姿勢で暮らしている。が、しかし一方では、心の奥底の人間のずるい本性で「未来の心配は尽きないが、その頃には私は既にいないだろうから、ま、仕方がないか。申し訳ないけれど、後は若い方に任せて失礼しよう」と思う自分がいる。
怖い、怖い。こんな風に考える人が世の中の決裁権を持っているとしたら、ますます未来は期待できない。自分は、絶対にそんな風に考えない!と思ってはいけない。大方の、特に力を握っている高齢者は自信があるだけに自覚のないまま、そう行動しがちなのだから。
だから、世代交代が叫ばれるのだ。若ければいい訳ではないが、時代は彼らのものなのだ。多かれ少なかれ「あとは野となれ山となれ」と遺された遺産を、若者たちはプラスに転じて、より良く運用し、今より明るい未来にしなければならない。
間もなく勤労感謝の日。せめて今までの無策非力を詫び、これからの骨折りに感謝して若者を励まし労おう。青い星、地球をよろしくお願いいたします。
2023年11月13日 (月) 銀子