指先に触れる水もひんやりして、もの言えば唇寒い候になった。
階層で括られることが多い組織内では個々人がスキルを磨き、声を高くしてアピールしなくてはならないことがあるだろう。
対外的にはもちろん、組織内の昇格や昇進に関わるポイントにもなる。
が、時には何も言わないのに陽が当たることもある。
40年ほど前、私は大手鉄道グループの系列旅行会社の仕事をしていた。
国内旅行からハワイやヨーロッパ、アジアなど人気観光地のためのパンフレット制作や、旅行社発行のハンドブック用の紹介記事を書いていた。
その旅行会社は当時としては珍しく、まだマイナーだったアラスカ観光にも力を入れていた会社だった。
アラスカ観光の集客アップのため、パンフレットをリニューアルすることになり、参考資料を集めた。各旅行会社の案内パンフレット、さまざまな出版社のガイドブックや雑誌、各種の地図などを見比べて驚いた。通常、変動のない数字(標高や距離など)から、更新されているはずの現地情報までバラバラだった。
早速、日本のアメリカ領事館・アラスカ州政府商務省に問い合わせた。数多い間違いに州政府でも驚いていた。
州政府の協力や現地との連絡で正しいデータや生活情報などの確認や更新を繰り返して修正が落ち着いた。
パンフレットの内容が正しくなって、無事リニューアルを終え、営業活動も波に乗ったらしく売上も少し伸びた。
その間、商務省へ何回も通ったり勉強をしていく内に、次第に私は仕事の枠を越えてアラスカそのものに強く惹かれていった。もともと僻地好きだったのだが、苛酷で美しい大自然と、そこに暮らす人間の知恵など、桁違いのスケールにすっかりアラスカ中毒(Alaskan Holic)になってしまった。
仕事に反映できる新しい情報はもちろん、あまり知られていない古い話や微細な情報、先住民族の暮らしや自然の楽しみ方など、面白い資料や書籍がどんどん増えていった。
ある日、系列旅行会社から連絡があった。
「鉄道グループ会長との会合で、会長自身の思い入れがあるアラスカについて話が出ました。アラスカ好きの制作者が情報を修正した話、パンフレットをリニューアルして少し売り上げが伸びた話などをすると、会長が『ほぉ、そんなに好きなら行って自分の眼で見てきたらいい』と言ってくれましたよ。
新しいパンフレットも作りたいし、写真も更新してほしいし。制作費・宿泊・交通費は当社が負担します。空いた時間は好きに使って、ほかの仕事入れてもいいですよ。実際に行って、アラスカの良さを実感してきてください」とのことだった。
記事の信憑性は上げたかったが、誰かに認められたい、報われたいと思ってした努力ではなく、最後はほとんど個人的な興味の結果だった。
会ったこともない会長が異例の決定をするとは、恐縮した。有難き幸せで、そこから話が急展開して、2週間の出張旅行が決まった。
生き馬の目を抜く広告業界で、今時こんな話があるのかと驚き、山ほどの勉強が役立って嬉しかった。もちろん、出張によって写真も内容も一新したパンフレットができ、アラスカ観光の売り上げがさらに伸びたことも大いに嬉しかった。
それから数年後、ある広告代理店で聞かれるままにこの時のことを話すと、「ちょうどアラスカが舞台の映画の制作協賛することになっている、ぜひ資料を借りたい」とのことで、「アラスカ資料提供者」として再び仕事になった。
陰の勉強はここでもまた幸運を運んでくれた。
ビジネスでは、アピールすることで互いの要望がはっきりして、需要のバランスが取りやすく双方に良い結果になることが多い。オープンで現実的な戦略だと思う。
しかし、私はどうもアピールが苦手で、自分のことを説明するのが嫌で、知らん顔をしたくなる。
世の中はアピールのための付け焼刃が脚光を浴びることの方が圧倒的に多いのだが、時には時間と熱意をかけた自発的な陰の勉強が、望外の結果をもたらすこともある。
仕事上の望外の幸運も光栄だったが、その時の私には、ただ好きの一心がアラスカに届いたようで天にも上る嬉しさだった。
2019年 12月 10日 (火) 銀子