いよいよ町の緑が鮮やかになり、急いで歩くと少し汗ばむようになった。窓を開け放す日々が増えると、にぎやかな雀の声も近くなる。 世の中の波風は止まらないが、季節の流れ通りに暮らす生き物にホッとする。山では戻ってきた鶯が巣作りに忙しい頃だろうか。
◆鶯だって調子にのる
春告鳥ともいわれる鶯は、俳句や詩歌によく取り上げられる。寒い時期には平地で暮らし、晩春から夏にかけて山に入る。
まだ若い鶯は笹薮の中から「チャッ、チャッ」と鳴き、笹鳴きといわれる。山間部で巣づくりをするようになると「ホーホケキョ」と正調で鳴く。
しばらくすると「ホーホケッキョ、ケッキョ、ケッキョ」などとアレンジが加わる。
本当は巣の周囲の危険について伝える声らしいが、俳句では発声が熟練されてきた老鶯の鳴き方とされ、鶯の谷渡りともいわれる。
「ま、手練れて調子にのっているわけですな」と俳句の主宰が言ったのを時々思い出す。何事にも慣れてきて調子にのり基本を疎かにするな、との自戒とともに。
◆子供はもちろん調子にのる
身体の具合や物事の進み具合を調子という。が時にいい気になって舞い上がった軽率な言動をいうこともあって、多くは恥ずかしい結果になる。
子供の頃はよくそんなことがあった。山で小さな流れを飛び越えたら「すごいすごい」と友達に言われて、次の流れも飛び越えようとして落ちてしまった。
空のコップの中の空気を吸いこんで手を離し、吸引力だけでコップを口に付けたら従兄が「すごいすごい」と言ったので、もっと続けたら口の周りが内出血で紫色になってしまった。
どちらもショックで泣いた。多分、私はおだてられれば降りられない木に登るタイプなのだ。
◆大人もやっぱり調子にのる
子供の時ばかりではない。相当な歳になっても恥ずかしいことをしている。
ある時、取材が終わって帰りの飛行機を待っていた。時間があったので地方空港にしては広いカフェテリアで一人コーヒーを飲んでいた。
季節的なのか、時間によるものかわからないが、人がいなくてガランとしていた。
周囲に誰もいない席でボーっとしていると、正面のガラス壁の向こうに小学生くらいの少年が現れて、声は聞こえないがしきりに「見て、見て」とばかりに気をひく。
と思ったら急に当時はやっていた芸人のギャグを踊り始めた。(あははは、上手上手)思わず笑って、私は拍手の振りをした。
彼は調子に乗って繰り返し、踊り止めない。(見せてくれて、ありがとう。でももう、いいわよ)
ますます彼は熱心に踊って、「一緒にやって」と誘う。首を振ると「やだ、やだ、お願い」になって、次第に顔が歪んできた。それでも諦めずに踊っては誘う。
何回か繰り返した。辺りを見ると誰もいない。(しょうがないなあ)私が踊り始めると彼は飛び上がって喜び共に踊った。(じゃあね、そろそろ搭乗口に行かなきゃ)
手を振って席を離れると、背後にニコニコした夫婦らしき人たちがいて、「子どもがご迷惑かけて、すみませんでした。とっても喜んでいます」と頭を下げられた。
(え~っ!)お調子者の自分に顔から火が出て、仕事の疲れが何倍にもなってどっと押し寄せた。
功成り名を遂げただろう人が調子にのって、気の利いたことを言ったつもりで失言になることも多い。見ている方は人間の滑稽さが知れて面白いが、仕事ではまずい結果になってしまう。
パチンコ店から聞こえる音楽はマーチが多く、威勢よく行進しやすい2拍子は人を調子にのせて店に招き入れる。
チャイコフスキーの弦楽四重奏曲、トルストイが感涙したという名曲に「アンダンテカンタービレ(歩く速度で、滑らかに)」があるが、こちらはゆったりとした散策風。
調子にのるのが生き物の性ならば、せめて落ち着いた思索の歩みでいたい。いい時も悪い時も、自由に動けるときも八方塞がりのときも、なるべく自分の歩調を乱さずにいたい。
物価高騰の折、財布に5万円あるときも5円しか入っていないときも、踊らされずに同じ歩みを続けよう。
2022年4月27日 (水) 銀子