銀子の一筆

火の用心

町では落ち葉急な歩道を北風が走る。枝だけになった木々で空は広くなり、マフラー姿の通勤通学の足取りも早い。この時期物哀しいのは、日照時間が減るとセロトニン(幸福ホルモン)が減少するせいといわれるが、こんな日は早く家に帰って暖かな食卓につくのが一番だ。

気温も湿度も下がり北風が吹くと火の用心が叫ばれ、いつもより消防車のサイレン音が気になる。が、実際の火災件数は3月が最多なので、火災予防週間は11月9日から11月15日と3月1日~3月7日になったらしい。

◆落ち葉焚き

今は規制されているが、子供の頃は民家や公園のあちこちで落ち葉焚きが見られた。格別にサツマイモが好きなわけではなかったが、叔父の焚火から焼き芋が取り出されるのをみんなで待つのが楽しかった。町では募金活動や正月用の注連飾りを売る出店の傍らには、酸素を取り入れる穴をあけた一斗缶の焚火があった。ランドセルを背負って通りかかると、「あたってっていいよ」と商店街のおじさんから声をかけられることもあった。

郊外の伯母の家には薪ストーブがあって、冬はいつも何かしら煮豆やジャムやシチューの鍋がのっていた。料理の匂いだけでなく、薪独特の匂いや沸き立つような火の熱気が特別な気がした。実際伯母はガスよりもおいしくできるといっていた。竈炊きのご飯と同じようなことかも知れない。懐かしい時代の冬の風物詩だ。

少し大人になるとキャンプファイヤーの大きな焚火が魅力的だった。木の枝にマシュマロやチーズを刺して焼くのも楽しかったが、薪がはぜる音・踊り止まない大きな炎がDNAの原始の記憶を呼び覚ますのか、いつまでも見飽きなかった。

◆古い記憶

人類が火を使い始めたのは、約700万年前に二足歩行を始めてから500万年以上も経った約180万年前からだったらしい。獣除けの役割のほかに保健衛生上の効果があり、道具作りに欠かせない火は文明を大きく進化させた。古代ペルシア期にはゾロアスター教(拝火教)が生まれ、火を司る主神アフラマズダは後年日本の最大電球メーカーの社名に取り入れられたほど、火の力・明かりが人類に与えた恩恵は大きい。

日本でも古くから火や火事にまつわることわざや言い伝えは多い。「火の用心」が定着したのは戦国時代、徳川家康の家臣だった本多作左衞門重次が長篠の戦いの陣中から留守宅の妻に送った書状からだとされる。「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」お仙とは嫡男である仙千代のこと、馬は武士の命を預ける大事な財だった。かしくは、結びの句。「火の用心」という言葉とともに、簡潔に言うべきことを伝えている日本一短い手紙として有名になった。

◆恐いもの

かつて仕事が忙しく夜遅くまで起きていると、雨戸を隔てた外から拍子木の音に合わせて「火の用心 マッチ一本 火事の元」と呼びかける夜回りの声が聞こえた。顔も見えないけれど注意喚起され、「寒い中、ご苦労様です」と感謝の念が湧いた。風情があっていいなあと思っていたが、最近では騒音トラブルになることもあるという。いつからこんなにトゲトゲした世の中になったのだろう。

恐いものの例えとして「地震 雷 火事 親父」という言葉があるが、自然現象・人の手に負えない勢いに次いで親父が並んでいるのはなぜか?大風(おおやじ:台風)のことだとの説、家父長制度の強固さを表している説などがあるが、私には人間の恐さを「親父」で例えているように思える。人類最初で最大の恩恵が火であるように、人間は永久に不変な課題なのかも知れない。火の恩恵は脅威にもなり、人間の知恵は凶器にもなる。 今年の11月は酉の日が3回あった。古くから三の酉がある年は火事が多いという。 火にも人にも用心しよう。

2022年11月30日 (水) 銀子

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