銀子の一筆

図書室の先生

9月の古称である長月は、夜長月とも呼ばれる。秋分を過ぎると暦通りに少しずつ夜が長くなるのがわかる。秋の夜長、読書に親しむ人も多い。推理小説などジャンルにこだわる愛読者、幅広い乱読家などさまざまだが、本好きな人の多くはそれぞれに自分なりの読み方があるらしい。

私の場合、連鎖的に読むことが多い。一冊の本を面白く読み終えると、その作者が影響を受けた人、相反する論敵、時代の潮流や事物など、疑いや疑問も含めて次から次へと興味が続き、知りたいことが止め処なく増えていく。漫画でも小説でも専門書でも、仕事の資料でも垣根はない。終わりのない旅のように興味が尽きない。

思えば、その原型は初等部図書室の先生が教えてくれた本の楽しみ方だったと思う。

幼い時から本は好きだった。本の中のわからない文字や言葉を母に聞くと、辞書や事典の使い方を教えてくれて、「自分で調べて、私にも教えて」と言われた。調べて、説明すると少しわかったような気がして、辞書を引くのも好きになった。

小学3年生になると、いつも早めの時刻に登校して、図書室の鍵が開くのを待った。初等部の図書室はひと気がなく、好きな席で静かにゆっくり本が読めた。

図書室と廊下の間の壁の下部には、人ひとりが這って入れるほどの小窓があった。ある朝、フッと触れてみると鍵がかかっていないことに気がついた。開錠を待たない後ろめたさはあったが、窓から這って侵入した。そうして本を読んでいると、廊下で靴音が止まり鍵音が響いた。見ると古いドアが開いて、背の高い影が差し、図書室の先生が出勤してきた。

先生は初等部の生徒から怖がられていた。無口で静かなふるまいで、白斑なのかケロイドなのかわからないが、頭部から顔、首筋、手の甲まで斑に皮膚の色が変わっていた。近寄りがたい雰囲気のある、既に70~80代と思えるおじいさんだった。

(あぁ......叱られるに決まっている......)

すると、「黙って入らずに、言ってくれれば僕も早く来ます。制服がホコリだらけですよ」と言って、ニコニコしながらごみを払い落してくれた。私たちはその日から、すぐに仲良くなった。

小さな十字架の置物を背にした先生は、まだ子供の私に子供扱いの話し方をしなかった。私が一冊の本を読み終えると大人に話すように「面白かったですか?」としか聞かない。何がどう為になったか、どこに感動したか、など「読書感想」めいたことは聞かなかった。

私が「なぜ?どうして?」と感じた時には、授業よりも面白い話をしてくれた。例えば「ハイジ」が住んでいた国はどんなところか、「風の又三郎」は誰なのか、「宇宙戦争」の火星人の姿は本当か、答えは教えてくれないが、一緒に考えてくれた。セルバンテスは気の毒な人、ドリトル先生の後にはファーブル昆虫記も面白い、など作者やテーマ、時代や場所にまつわる話や本も教えてくれた。

夕方になると懐中時計を見ながら「はい、もうお帰りください。続きはまた今度」と言うまで、いつも先生はニコニコしていた。

知りたいことは尽きなかったし、読みたい本も増えるばかりだった。

先生の話をもっと聞きたかった。けれど中等部への進級に伴い、初等部の図書室から離れた中等部図書室に通うことになった。時々、校庭越しに姿を見かけて遠くから挨拶して手を振ると、先生はニコニコして小さく手を振ってくれた。そして中等部からもっと離れた高等部に進むと、姿を見かけることもなくなった。私は町の書店や都心の図書館など、新しくて楽しい外の日常に流されていって、先生に会うことはなかった。
会いに行かなかった後悔は今も残り、感謝とともに思い出して涙がこぼれることがある。

初等部の時に覚えた読書の楽しみ方は、今も私の中にしっかり残っている。先生とは約4年間だけのつながりだったが、私にとっては「読書の父」ともいえる存在だった。今でも記憶の中の図書室では、柔らかな笑顔の先生と子供の頃の私が話をしている。

広く多くを聞くことも大切だが、聖徳太子ならぬ身には、1人にじっくり耳を傾けることも劣らず大きな勉強になる。知っていることが増えるということは、知らないことがもっと増えることに他ならない。知らない世界やわからないことが増え続け、終わりのない旅が続けられる。なんて素敵なことなんだろう。
先生、ありがとう。

2019年 9月 25日 (水) 銀子

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